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80年代後半はヒットチャートで1位量産の時代
1982年にCDが登場。私、Web担当Mも自分が所有するアルバム枚数がこの時期に一気に増えたことを覚えています。
そして、その名のとおりコンパクト。で、外へ音楽を持ち出すのが、とてつもなく楽になりました。
そう、音楽を仲間と楽しみ頻繁に共有するようになったのも、この頃からでした。
レコードからCDへの転換というのが何をもたらしたのかというと、市場では、物理的にそれまでの4倍の商品ラインナップが可能となりました。LPの形態で発売された過去の作品がCDとして再発され、現在の作品と等価なものとして市場に供給されるという現象が生じたのです。そして、リスナーは、過去と現在の作品を区別することなく、TPOに応じて音楽を享受できるようになったのです。
しかも店舗形態では、メガショップが現れ、あらゆるものをどっとラインナップし、様々な音楽を我々は吸収できたのです。
なおかつ、極端な言い方をすると、ショップにとって最も効率の良いビジネスの条件は、毎週ヒットチャートの1位が変わることなんです。1位の商品をドンと入れて売ってを短いサイクルで繰り返すことなんです。’80年代はヒットチャートの入れ替わりが激しかったですよね。関口 進氏の『大衆娯楽と文化』(学文社)によると、“オリコンの週間1位となった曲は、1980年ごろは年間で10曲位であった。それが変化をはじめ、82年からは1位登場が年間20曲位へ、 85年には30曲位、その翌年には46曲にも増えてしまった” とあります。これは、意図的に業界が仕掛けたことだと思われます。
音楽が産業化されてくると、レコード会社は一定の採算分岐点を超えるものに自然と主眼を向けていきます。音楽産業の興味は、資金回収の直接的なツールとなる売れ筋な作品に重心が移っていったのです。供給側が売れるものに集中するので、その外側にいる個性的な表現者たちがインディーズへと進出していったのです。さらには彼らはライブを精力的に行っていきました。
少し時は戻りますが、1978年頃、東京のライヴハウスにおいて “東京ロッカーズ” と呼ばれるインディーズのムーヴメントが起こっており、’80年代には多数のインディーズ・バンドが登場しました。売れ筋偏重という状況下では、自分たちには音楽性があると確信しているインディーズの面々にとっては、ライブこそ最大のアピールのチャンスとなったのです。
確かに、’80年代の終わり頃、小箱のライブハウスを訪れた時も、常にレコード会社の方に遭遇したのを覚えています。
次の大きなうねりを生み出すバンドを探すため、インディーズシーンを注視している姿がとても印象的でした。
こういった音楽シーンのおかげで、当時、ヒットチャートのみならず、多様な音楽を享受できたのだと、私、Web担当Mは感じています。
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