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1970年開催の大阪万博とロックのカンブリア紀の到来!
命は尊い。ライブやイベントは止まる。もしくは条件付き。
そんな我慢の時ではありますが、
音楽文化とメディア・テクノロジーの関係について、とても興味深い文献と、私、Web担当Mは出会いました。
執筆されたのは、同志社大学の教授、太下義之先生です。
早速アポ取り。
「ぜひ、お会いしてお話ししましょう」と快いお返事が届きました。
先生からいただいた貴重なお話をみなさまへぜひとも伝えたい!
1970年に開催された大阪万博から現在まで、太下先生にじっくりと考察していただきます。
「1970年の大阪万博で上映された、映画『More』を通して、音楽を担当したピンク・フロイドの楽曲が流れたのを皆さんご存知ですか? そして、大阪万博をきっかけに、そのピンク・フロイドをはじめとした大物ミュージシャンの来日ラッシュが続いたことをご存知ですか?」
「一方で、英国では1970年前後に、ロックを耳にする機会が、あたかも生物大爆発が起きたカンブリア紀のように起こったのです」
と、太下先生は語りはじめました。
そのきっかけとなった大阪万博での出来事から振り返っていきましょう。
(聞き手/Web担当 M)
ピンク・フロイド来日と音響テクノロジーの進歩
[以下、太下義之先生・談 (本文中黒字)]
大阪万博開催の翌年となる1971年に、毎月のように大物ミュージシャンたちが来日していたことをみなさんは覚えていらっしゃるでしょうか? 万博を契機に、海外のレコード会社やミュージシャンたちが日本市場に目を向け始めたため、という背景もあったのでしょうけど、実はそれ以上に音響というテクノロジーが来日公演急増を支え、大きな要因となったと私は推測しています。
PA (コンサート音響) 業界で老舗企業であり国内最大手のヒビノ株式会社 (1964年設立) のWebサイトには、当時のエピソードが掲載されています。
翌1971年4月、ヒビノはコンサート用音響機材のレンタルと設置・オペレートを行う専門部署として、新たにPA事業部を立ち上げたのです。当時、海外の一流アーティストの中には、「音」に徹底したこだわりを持ち、世界中のどの会場でも満足のいく音が出せるようにと、お気に入りのPA機材を本国から持ち込んだり、専属のPAスタッフをツアーに帯同させたりするケースが少なくなかったのです。でも、アーティスト側からすると、大型機材を持ち込む手間とコストを考えれば、現地調達できるに越したことはない。当時シュアをはじめとする輸入音響機材を持つ業者は数少なく、ヒビノのレンタルサービスはとても重宝される存在となっていったのです。 出典:「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より要約 |
これが実証されたのが、国内外の人気アーティストが出演する大型野外フェスの日本における草分けであり、伝説のコンサートの一つとしても語り継がれている「箱根アフロディーテ」だったのです。
アルバム『原子心母』のファースト・トラックが始まると、他の出演バンドとはまったく違う音の迫力に、多くの観客は驚嘆したという。
出典:「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より要約 |
このように、ピンク・フロイドが初来日した箱根アフロディーテは、日本の音楽史上において、特筆すべきコンサートとなり、その後、来日公演ラッシュの幕開けとったのです。これも大阪万博における音響テクノロジーと一人のエンジニアの出会いがあったからだったのです。
日本人アーティストが海外進出するきっかけに
そして、大阪万博がもたらした効果は、海外ミュージシャンの来日ラッシュだけではない。日本のロック・バンドの海外進出に関しても、大阪万博が契機となっているのです。
フラワー・トラヴェリン・バンドのWebサイトには、当時のエピソードが掲載されています。
出典:「フラワー・トラヴェリン・バンド公式サイト」より要約 |
この『SATORI』は、無国籍風の旋律を奏でる独創的なスライド・ギターとハイ・トーンのボーカルが音楽的な特徴となっていますが、それ以外に、全曲の歌詞が英語であるという点も大きな特徴として指摘できます。これは、同アルバムのプロデューサーであった内田裕也氏のアイデアとされているのです。
リスナーにとって、同日に開局したFM大阪の存在も大きい
さらに、大阪万博の開幕と同日にFM大阪が放送を開始したことにも注目していただきたい。この音質の良いFM放送で流れる音楽を、リスナー個人がラジカセを通じてカセットテープに録音する “エアチェック” と呼ばれる新しい文化的作法が急速に普及していったのです。そして、アーカイブされた音楽を何度も聴き返すという音楽的体験は、多数のコアな音楽ファンを生み出し、友人とシェアするという文化も育んでいきました。前述した海外ミュージシャンの来日ラッシュという現象が生じた背景には、万博開催と同時期に開局したFM放送を通じた多数のコアな音楽ファンの生成という、需要側の要因も見逃すことはできないのです。
1970年代は、ものすごい多様な音楽表現が出てくるのです。私はこれをロックのカンブリア紀と呼んでいます。カンブリア紀って生物が目を持ったんです。爆発的に進化したんです。このカンブリア紀と同様に、当時のリスナーやミュージシャンたちが “耳” を持って、音楽、特にロック・ミュージックに対する感性とリテラシーを劇的に向上させたのです。
なぜかと言うと、1967年まで英国では “ニードルタイム” と呼ばれる規制があり、ラジオで1日5時間までしかレコードを再生することができなかったのです。だから、1960年代は規制のかからない海賊放送が盛んだったのです。
その後、規制が撤廃されて、1967年からBBCがラジオ1という番組でロックをガンガン流すようになりました。そして、ジョン・ピールのような有名なディスク・ジョッキーもこのBBCのラジオ1に参画したのです。このようにして、当時のリスナーやミュージシャンたちが同時代の最先端のロックを浴びるように聴き始めて、相互に触発されていき、先進的で多様な表現のグループが続出するロックのカンブリア紀を迎えたのだと私は考察しています。
当時、日本はある意味、音楽で言うと、少し後進国だったのかもしれません。でも、大阪万博をきっかけに、英国等からロック・ミュージシャンが大勢来日するようになり、ロックのカンブリア紀の影響を受けたのだと思います。ライブで、レコードから、メディアから。我々がいろんな音楽を聴く耳を持ったことで、多様な表現が爆発したのです。
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