[3/5]
“ロックシンガー” 西城秀樹との出会い
しかし音楽性の相違から約1年で脱退。芳野はファニー・カンパニー解散後の桑名正博や、フラワー・トラベリン・バンド解散後のジョー山中のサポートで演奏するようになった。桑名の紹介で知り合ったジョー山中には「ずいぶんかわいがってもらった」と言う。
「ジョーはケンカっ早くてね。怖かったけど、僕は一回も怒鳴られたことがなかった。桑名がある時『なあ、ジョー』って言ったら、『なに呼び捨てにしてんだ?! ジョーって呼んでいいのは芳野と2~3人だけなんだよ』ってキレた。日比谷野音のあのライブ (1970年5月10日、東京・日比谷野外音楽堂で行われた『第3回ロックフェスティバル』のライブ中、全共闘の学生十数名がステージに乱入した) の時も僕はいたんですけど、ジョーは元ボクサーだったから次々に相手を倒してた。で、マイクスタンドを振り回して応戦してた僕のことを守ってくれてね」
芳野がギターで参加したジョー山中バンドは、74年2月に日本武道館で行われたロッド・スチュワート&フェイセズの前座でも公演。それを客席で観ていたのが、すでにトップアイドルだった西城秀樹である。
「武道館公演の少し後、乃木坂を歩いていたら『藤丸さんじゃないですか?』って声をかけられたんです。それが秀樹で、いきなり『今度バンドを作りたいので手伝ってくれませんか?』と言われた。当時はジュリーが井上堯之バンドとやったりしていて、秀樹もそういうバンドが欲しかったんですね。その時は『歌謡界のアイドルと一緒になんてできるかなぁ』と思ったんだけど、『とにかく一回コンサートを観てほしい』と言うので、観に行ったんです。演奏が聴こえないくらいに声援がすごかったけど、秀樹がやってることはそこらのロックシンガーも太刀打ちできないくらいにロックで。とにかくノセ方が上手かった」
そうして芳野は “藤丸バンド” を結成し、西城のバックを務めることに。「突然、芸能界のど真ん中に放り込まれた感じ」になったものの、「秀樹とはすぐに仲よくなったし、とにかく楽しかった」そうだ。
「『薔薇の鎖』や『激しい恋』などのヒットを出しまくっていた頃ですけど、フランクに話せたからすぐ気軽に “秀樹” って呼べるようになった。土日は毎週、秀樹のコンサート。地方にもあちこち行っていたし、『8時だョ! 全員集合』などのテレビ番組にも出た。本当にいい経験をさせてもらいましたよ」
後楽園球場などの野球場で、日本で初めてド派手な演出の公演を行ったのも西城だ。
「30mもゴンドラで吊り上げられて乱れることなく歌うんですからね。本当にすごいと思いましたよ。僕もリハの時に命綱を付けて乗ったけれど、下を見ることもできなかった」
ミュージシャン仲間とSHŌGUNを結成
土日に藤丸バンドで西城のライブをサポートしながら、平日はスタジオミュージシャンとして数々のレコーディングに参加。この頃、多忙を極め、1日4ヶ所のスタジオを移動することもあったと言う。太田裕美「木綿のハンカチーフ」、郷ひろみ「よろしく哀愁」、バンバン「『いちご白書』をもう一度」…。そうした楽曲で、今も耳に残る印象的なギターを弾いていたのが芳野だ。
【提供曲】 【セッション参加曲】 |
「スタジオで仕事していると、いつも決まって顔を合わすミュージシャンがいるわけです。ある時、CM制作会社の人に『このメンバーでハワイでレコーディングしないか?』って持ちかけられて、僕はハワイという餌に食いついた (笑) 。そうして始まったのがワン・ライン・バンドで、後に改名してSHŌGUNになりました」
ワン・ライン・バンドがハワイで録った唯一のアルバム『Yellow Magic』(77年) は、AORにディスコサウンド要素を交ぜた音楽性で、ヒットには至らずとも業界内で話題に。それを聴いて気に入った日本テレビ音楽のディレクター/プロデューサー、飯田則子 (タレント活動の後、日本テレビ音楽株式会社に入社。テレビドラマの主題歌、背景音楽のプロデュースを手がけた) が彼らに声をかけた。『太陽にほえろ!』の井上堯之バンド、『俺たちの勲章』のトランザム、『西遊記』のゴダイゴ。昭和40年代男世代はそうした70年代のテレビドラマとバンドによる主題歌及び劇伴の組み合わせを非常にカッコよく感じたものだが、その3つを担当したのが飯田で、ワン・ライン・バンドをその4番目のバンドにしようと考えたのだ。ドラマは沖 雅也主演の『俺たちは天使だ!』。主題歌は「男達のメロディー」である。
(次ページへ続く →「男達のメロディー」は投げやりに歌ったらウケちゃった [4/5] )