目指したのは、舞台と客席の一体化
70年代の歌謡界を華やかに彩り、ダイナミックなアクションでブラウン管のこちら側の少年だった俺たちを熱くヒートさせてくれたのは、西城秀樹その人だった。歌って踊るアクションスターとして、次々と音楽シーンを改革していったヒデキは俺たちの永遠のヒーローだ!!
取材・文:馬飼野元宏 ※本誌記事からの改訂版掲載の形でお送りします。
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1970年代、数々のヒット曲で一時代を築いた西城秀樹。絶唱型と呼ばれる日本人離れしたスケールの大きなボーカルスタイル、歌いながらの激しいアクション、さらには日本にスタジアムライブを定着させたのも彼だった。西城秀樹こそが、日本のエンターテイメントを次々と革新していったパイオニアだったのだ。
もともと西城秀樹は、小学校3年でジャズのスクールに通い始め、クラシックギターを習っていたが、兄のバンドでドラムを叩き始め、小学生ドラマーとして広島で活動していた。ベンチャーズやビートルズ、ジミ・ヘンドリックスやローリング・ストーンズなどの洋楽に影響を受け、なかでもシカゴが断然好きで、自身の洋楽体験のなかで大きな比重を占めていたという。また、思春期の頃のアイドルはジャニス・ジョプリンだった。では、アマチュアバンドでドラムを叩いていた少年が、どうして歌手としてデビューすることになったのか。
「スカウトされたんです。僕はウッドストック世代ですから洋楽が好きで、出身地の近くの岩国には米軍キャンプもあったし、子供の頃から洋楽に親しんでいました。歌謡曲は聴いていなかったし、歌手になりたいとは全く思っていなかった。でも、スカウトされて歌謡曲を歌うんだ、アイドルをやるんだと言われて、ああ、そういうものなんだ、じゃあやってみようか、というくらいの気持ちでした」
(次ページへ続く → 歌手と観客の一体感を作り上げたヒデキコール )
2度と現れる事の無い、超スーパースターだと、亡くなってから更に思いました。
2世の方は超える事が出来ない、お父さん、比べられるとプレッシャーになると思いますが、これも一つの宿命だと思います。
誇りを持って秀樹の子供として生きて行ってほしいです。
初めまして!!若い頃はカッコ良い
ハスキーな声だけが大好きで♡ヤングマン頃からジャズや洋楽などを聴くようになり
秀樹とは離れたいました‥でもあの日以来
青春が甦り!!秀樹を聴きまくりYouTube巡りや当時携わってた方々のコメントやエピソード毎日が秀樹の音楽で溢れてます♪♪♪
当時秀樹のバックバンドをしてた方も
呟いていましたが今思えば如何に秀樹が
自分の意思を持ち努力していたか!!
今更だけど十代から洋楽を歌いこなし
当たり前のように思ってたけど本当は凄い事だったのかと‥‥私も秀樹を聴きまくり同じ気持ちになってます!!秀樹〜沢山の素敵な
曲を残してくれてありがとう!!これからも
毎日が秀樹で溢れると思います。
最近はカセットも時々聴いてますけど(笑)アルバム楽しみで〜〜す。
俺たち秀樹のファンは秀樹って凄いねんでと熱く語っても当の本人は
そんなことないけどねと照れる
デカイ秀樹、
だからファンで
いさせて下さい
何年経ってもカッコいい人はカッコいい
秀樹さんは洗練されたジェントルマン
揺るぎのない自信に満ちて✨
私、昭和40年生まれのWEB担当Mも少年時代に秀樹さんに憧れておりました!
まさに、カッコいい人はカッコいい。
揺るぎない自信を持ち続け、改革を進めるには、数多くの努力の物語があったのでしょう。
尊敬の念ですよね。
西城秀樹の名前は知っていても、又はヤングマン(YMCA)はもちろん知っていたとしても、西城秀樹さんの天才的な歌唱力や芸術性まで知っている人は少ないのではないかと思います。復刻版のアルバムで見直されると良いなと願っています。
秀樹さんの倍音の声の魅力。
アルバムで堪能したいですよね!!
コメントありがとうございます。
WEB担当M
インタビュー記事の掲載ありがとうございました。ヒデキさんが今はもういないことが残念でなりません。病気などしなかったら、と思ってしまいます。
けれど、記事を読んで、ヒデキさんの人生は短かったけれど、誰よりも熱く燃えたのだと感じることが出来ました。
アルバム一枚ずつ楽しみます。
ファンのみなさまへ、西城秀樹さんの真意と功績を伝えたく、インタビューを公開させていただきました。
アルバムで聴くと、秀樹さんの新たな魅力を発見できるので、楽しみですね!!
コメントいただき、本当にありがとうございます。
from WEB担当M