東京を歩いていると、閉まったシャッターに貼られた閉店挨拶をよく見かける。ずいぶん長いこと張り出されていて、哀愁を放っているものもちらほら見かけてしまう。さらにそんな放置されている施設に工事が入ったりするとなおハートブレイクするのは、おっさんゆえの感情だろうか。写真はよーく通った家の近所のスナックで、去年の夏に閉店してそのままの姿を保っていたのだが、手前の居酒屋とともについに手が入り始めた。
近所の小さなコミュニティだった。元某民放でテレビ番組制作をしていた方とは、昭和のテレビ番組の作り方について語り合った。子供たちにピアノを教えている先生のご苦労話や、喜びにうなづいた。僕と同じく地域の自治体でイベントを担当していて、遊びに来いなんてお誘いを受けたり、消防団でがんばる方らと自治について語り合った。僕の街には大きな会社がいくつかあるもののあまりこの店に立ち寄らないのは、常連客のほとんどが地元の人間だったからかもしれない。そんな和気あいあいとした雰囲気だから、引っ越したばかりでよそ者だった頃はみなさんよりご指導ご鞭撻いただき、やがて少しずつ大きな顔で歌うようになったものだ。西城秀樹さんが亡くなったときは、ジャイアンで通っている僕に次々とリクエストが入り、みんなで追悼したっけ。
一方こちらの写真は、浜松町が誇る貿易センタービルの地下食堂街である。ご覧のとおり店は営業しておらず、人の流れはない。昭和な味噌ラーメンとチャーハンが食える札幌本舗は、隣の新しいビルでしっかりと営業している。真新しい店で出される味噌ラーメンと半チャンは、どこか洗練されてしまった。特にチャーハンはものすごくしょっぱかったのが、普通にしょっぱくなった。まっ、これでも十分昭和なのだが、こちらの貿易センタービル店を昭和の基準だと考えると、現在の浜松町クレアタワー店は令和とは言わないまでも平成に感じられてしまう。うーむ、おっさんのたわごとだな。
江戸時代から続くそば屋で、こよなく愛する更科布屋の支店もこの食堂街にあった。本店は琴の音が流れて、重厚感というか老舗の雰囲気をほんの薄くながら醸し出している(あくまで庶民派)。それに対して、貿易センタービル店は昭和の街そば屋の風情だった。なんてったっておばちゃんたちがいい。浜松町は羽田空港からモノレールで直結しているから、おぱちゃんたちはようこそ東京、もしくはまた来てね東京のつもりで客に話しかけていたのではないか。あったかいおもてなしがこの店の味で、僕はそれを楽しみながらそばをすすっていた。
もしかしたら年度末の3月でビル自体の営業が終了かと思い末日に出かけてきたのだが、受付のお姉さんに聞くと詳細はまだ発表していないものの6月とのことだ。今日まででないのかとホッとしたと同時に、カウントダウンに入ったことを最終確認できたことになる。昭和日本の発展の象徴として君臨したビルの1つだから、できるだけ見上げて愛してやろうなんて思っている。