2週間以上にわたり、このつぶやきではPRを続けてきた。そろそろ第64号の大編集後記はこれまでにして、通常のよもやま話に戻すとしよう。となれば、大トリは奥田民生さんの記事でつぶやかせていただく。
中3の冬のことだった。いよいよ受験も目の前という雰囲気の教室で、ビートルズジャンキーの友人からジョンの死を知った。あれから40年後の冬に、自分の作る雑誌でこの記事を掲載するなんて予感のかけらもま〜ったくなかった。しかもタメ年シンガーの奥田民生さんを迎えてとは、人生ってララだな。8ページの巻末特集となり、奇しくもロック元年で組んだ特集号の大トリがジョン・レノンの記事で民生さん登場というのは、偶然が重なってのことだと思えないほど親和性が高いじゃないか、エッヘン。
僕世代のミュージシャンで、ビートルズの血がもっとも濃く流れている2人が民生さんと斉藤和義さんだと、その音楽に触れる度に感じている。となれば、ジョンの特集をタメ年 (斉藤さんは1コ下) の民生さんに語っていただくのはあたり前田のクラッカーだ。そんな我々のオファーに快諾してくださり、『昭和40年男』の11年以上となる長い歴史で初めて夢が叶った。なんてったって上記のお二人は、そのまんま僕にとって同世代シンガーの最高峰にいるのだ。4ページに渡って綴られたインタビューを掲載しているから、まだの方はすぐに手に入れなさいっ(笑)!!
ユニコーンは少々下の世代が熱狂したバンドだろう。僕にとっても、バイト先の有線から流れてくるちょっと変わったセンスを誇るポップスという印象で、聴き漁るようになったのはソロでハマって以降のことだ。ではハマったのは? 1995年に発売されたソロデビューアルバム『29』で、自由奔放に感じさせながらも高い音楽性で、加えてタメ年が紡ぐ言葉にハマりにハマった。そして編集後記にも書いたように、ヤマハ発動機の宣伝マンに民生ワールドを押し込んだ。彼とは現役を引退した今もお付き合いいただいていて、初めて呑んだ時のことだった。ものすごく頭のいい方で、緊張しながらも2軒目のスナックで民生さんの「愛のために」を歌った。大声を張り上げたあの日は96年の新春のことで、翌日には『29』を買って彼に送ったという一連の動きは鮮やかに記憶されている。その後、彼は97年3月発売のスクーター「VINO」のCMを手がけた。PUFFYを起用して、民生さん作の「サーキットの娘」を起用したというご縁はなんとも運命的である。“家 (ウチ) から5キロの大冒険” という見事なコピーとも相まり、VINOは大ヒットした。この頃には大きな仕事もご一緒させていただくようになり、それらを通じて様々なことを学ばせていただいた。今も師と仰いでいる。
って、なんの話だっけ。そう、そんな風に大好きなタメ年シンガーと会える日を楽しみにしていたのだが、憎っくきコロナはこんなところでも僕から楽しみを奪い去った。これも編集後記に書いたことで、取材に人数制限がかかってしまったのだ。その数3人。カメラマン、ライターはもちろん入らなければならず、担当編集と置き物の編集長のどっちとなれば、当然ながら置き物は廃棄処分だ。僕はこのチャンスに、『昭和40年男』がぶちかます、民生さんの協力がぜひぜひ欲しい悪巧みを熱く伝えたかったのだがおのれーっ、憎っくきコロナめ!! とは言え、今回繋がることができただけでも大きな成果だと、拳を天につき上げて※ 祝杯をあげた。来年もまた取材を申し込むぜ。心は今赤いぜ (「風は西から」by民生さん)。
※「拳を天につき上げろ」: 2012年の箱根駅伝のサッポロのCMで聴いた、書き下ろしのタイアップソング。痛快な映像とミドルテンポのロックナンバーで構成された楽しい作品だった。東洋大・柏原選手の圧巻の走りと相まって、前年の震災に沈んだ日本を元気にしてくれた。
追記: 民生さんの4ページに続く島村洋子さんの寄稿がこれまた見事で、自分の作った雑誌に掲載されていることにも強い喜びを感じていたりする (うわっ、またまた自画自賛だな)。
さてこれよりはさらなるPRだ。『昭和40年男』はコーラスグループの「フォレスタ」をプロデュースしていく。その第1弾動画がこれなんで、ぜひお付き合いいただきたい。曲は「宇宙戦艦ヤマト」だーっ。