今日も元気に大編集後記をお送りする。4つの章で構成した第2章は、甲斐バンドで幕が開く。part1を、テレビからロックが流れ始めた昭和53年で構成して “胎動の年” と命名した。続くpart2は昭和54・1979年で、“動乱の年” と位置づけたのである。こうしたタイトル周りはどうでもいいと思う方がいれば、高く評価してくださる方も一定数いるからいつも凝りに凝っている。そんな僕の変態な仕事を、観察していただけるととうれしい。
1979年を動乱とするのに、甲斐バンドの存在は大きい(だからトップバッターだよな)。当時は大晦日から年明けにかけて放送される『ゆく年くる年』には民放バージョンもあって、NHKに対抗するかのように各局共通で流していた。チャンネルをガチャガチャして楽しんだなんて、昭和の想い出がある諸氏も多かろう。そして、まだ中1だった僕の年越しは、甲斐バンドが叫んだ♪ヒーロー、ヒーローになる時〜♪で始まったのだ。午前零時の奇跡に感じたこの現象と曲は、子供心に大人の本気の凄さと、まだその言葉は使っていなかったがエンターテインメントを仕掛ける痛快を知った瞬間だった。特集的に言わせていただくとロック2年は、この鮮やかすぎる現象で幕を開けたのだった。
これ以前にも甲斐バンドは一定の評価を得ていた。が、「HERO (ヒーローになる時、それは今)」は、凄まじい破壊力と迫力で中坊の僕をメロメロにして、甲斐よしひろさんには孤高の男を感じて虜にさせられた。女の子に媚を売っていない感じもステキで、表現できない類の声にも魅了されたのだ。なんだか感情を鷲掴みにされた感覚を味わった。
だが、演奏している姿をテレビで見ることはできなかった。矢沢永吉さんや中島みゆきさんサイドの人なんだと分類したのは『ザ・ベステトン』によってだ。必死の交渉をしているとの説明がいつも虚しく響く。コンサートになんかいける年齢じゃないし、動く甲斐さんが♪ヒーローと熱唱する姿に焦がれた。が、またもブラウン管の中で動乱が起こった。今回の記事にもある、初めて動く甲斐バンドを見たのは『ザ・ベステトン』だった。テレビに出ない人なんだと分類させた当の番組によって、奇跡が起こったのだ。痺れまくったあの日は今も記憶にしっかりと残っている。と、きっとそんな感情を共有いただけるだろう。ぜひっ!!
さてこれよりはさらなるPRだ。『昭和40年男』はコーラスグループの「フォレスタ」をプロデュースしていく。その第1弾動画がこれなんで、ぜひお付き合いいただきたい。曲は「宇宙戦艦ヤマト」だーっ。