つい先日、赤坂に行く機会がありまだ看板があったので写真に収めた。女々しい話だが、撮らずにいられなかった。僕にとっていつもあった風景なのに、もう店の中に親父さんはいない。30年以上にわたってこの地で努力を続けてきたのに、今回のコロナ不況に敗北となった。ご高齢だったことも大きい。
天然しか使わないから、四季がわかる。マグロも天然の本マグロしか使わないから、これまた四季がわかる。魚にまつわる様々なことを舌を通じて学ばせていただいた。近年は青魚の熟成にハマっていて、うまく進んだ時は子供みたいな微笑みで供してくれた。魚もさることながら、その笑顔もこの店のごちそうだった。そんな魚自慢ばかりをしている親父さんに、女将さんがツッコミを入れたりして最高の夫婦漫才まで披露してくれていたのだから、極めてコスパの高い店だった。
“自分の店” という響きが好きだ。勝手な話だがそう呼ばせてもらっている店は多くて、人を呑みに誘う時によく使う単語だ。特に目上の方に対しては「今日は僕の店でよろしいでしょうか」と、ちょっぴり男の粋に酔ったりする。ところが昨今、僕がこの表現を使える店がどんどん減っていて、「石」さんの閉店はとどめを打たれた感じだ。
好んで通うようになる店は、そこの店主の存在が極めて大きい。そして、和食系の店で目上の店主だと親父さんと呼ぶのが好きだ。じっくりとプライベートで呑む席では、ちょっぴり甘えさせてもらいたいのかもしれない。そんなガキ戻りを楽しむ僕だから、重厚な親父たちの方が都合がいいのだ。するってえと、ある程度年齢が離れた店主となるから基準としては10コ以上だろうか。うーん、65歳以上だな。そりゃあ、自分の店がなくなっていくわけだ。今後は昭和の食通たちがそうしてきたように、育てながら自分の店にしていかなければならない。そういう年齢になっちまったってことだ。が、池波正太郎さんや北大路魯山人さんのような神の舌を持っているならいざ知らず、僕にはちょっと難しい。うーむ、人生の彩りが減ってゆく。