7月を終えようとしているこの頃には、深く強く思い出す人がいる。今から6年前の7月25日のことだった。『昭和40年男』を立ち上げから、編集とライティングで手伝ってくれた川俣 隆さんが旅立ってしまった。癌だった。
出会いは突然だった。2006年の夏のことだ。この秋に、僕としては初のバイク雑誌でない立ち上げとなった、音楽雑誌の創刊に奔走していた。初めての業界ゆえに、一人でも多くのスタッフが欲しくてご紹介いただいたのが川俣さんだった。温厚そうなダンディという第一印象で、これはきっと組める方だと直感しながら彼の用意してくれたプロフィールに目を通すとありゃりゃびっくり仰天、『ギター・マガジン』編集長という文字を見つけてしまった。
中3の冬、1980年のことだった。当時組んでいたバンドのベーシストが、すげー雑誌だと興奮気味に学校に持ってきたのが『ギター・マガジン』だった。僕が雑誌ジャンキーになったのは、中1の冬に出会った『ミュージック・ライフ』に始まり、『ギターマガジン』がトドメだった。両誌ともに、雑誌というメディアの素晴らしさを十二分に教えてくれた。当時の編集長である東郷かおる子さんと、川俣 隆さんが今の僕に導いたと言っても過言ではない。その一人が突然目の前に現れたのだから、そりゃあどんだけびっくりするんだってご理解いただけるだろう。しかも、一緒に仕事をしてくださるという席での出会いだ。クラクラするほど緊張しながら打ち合わせを終え、僕はそのまま「一杯ご一緒していただけませんか」と、まるで恋する少女の告白のように誘うと、「いいですよー」と軽く快諾してくれたのだった。そして、当時事務所があった赤坂の僕にしては高級中華料理店を奮発し、さらにバーに移って痛飲しながら意気投合した。前述したとおり、僕にとっては恩人なのだと、このバーで告ったのだった。
2006年の10月に、無事に音楽雑誌をリリースしたものの3年で諦めた。それなりの健闘はしたものの、なかなか採算ラインに乗せられないまま終えた。が、切り替えるように2009年の10月に『昭和40年男』を世に送り出して今に至っている。川俣さんはこの音楽雑誌で3年間と、そのまま『昭和40年男』でも約5年付き合ってくれた。最後は抗がん剤治療を繰り返しながらの執筆だった。
毎年、命日前後には川俣さんを紹介してくれた、やはり音楽雑誌からの付き合いで『昭和40年男』でもライティングに関わってくれ、近年は脚本家として大活躍 (シナロケを題材にしたNHKドラマ『You May Dream』など) している葉月けめこさんと献杯している。「なんで死んじまったんだよ、早えよ」と、2人で天国に向かって悪態をつく。今年は『昭和50年男』や『総集編』の作業などなどで立て込んでいて、8月になってしまうがプログラムされていて、彼の功績を讃えながら呑むのが楽しみだ。深く感謝する日でもある。
先月発売した総集編の『俺たちが惚れた 昭和の男たち』でも、彼の文章が誌面に踊っている。そう、彼はまだ雑誌の中で生き続けているのだ。もちろん僕の心の中でもだ。追悼の7月である。