今日はSBC信越放送のラジオ番組『らじカン』で志村けんさんをネタに喋るぞー。明るくいくようにがんばるから、聞ける方はぜひお付き合いくだされ!! 番組は2時過ぎから、僕が騒ぐのは3時過ぎからだ。
さて、いきなり脱線ゲーム。ビートルズが嫌いになったのは、中学の時のことだ。その事件の以前は、普通に興味を持っていたしベストアルバムの赤盤青盤は、中1の冬の初めて買うレコードリストにも入っていた。なのに嫌いになってしまったのは、音楽の先生が仕掛けた事件のせいだ。
僕の通う中学はそこそこに荒れていた。当時はどこもそうだったかもしれないが、舐められてしまった教師の授業は崩壊する。いくつかあったそんな授業の中の1つが音楽で、か細い女性の先生を毎度気の毒に思っていた。ある日その先生が攻勢に出た。ドヤ顔だったかは記憶にないが、ラジカセを持ってきてビートルズを流したのだ。これが荒れた授業を沈静化するのに極めて有効な作戦だった。が、僕はそれまで別段嫌いでなかった音楽教師が嫌いになっちまった。姑息な手を使いやがってと。さらにこの時僕は人生を誤った。ビートルズが嫌いになっちまったのだ。「子供をてなづける子守唄かっ!!」という気持ちである。後にミュージシャンを目指す中坊が、その一番の成長期にビートルズを捨て去ったのは致命的で、後にはシカゴブルースにハマっちまったもんだから、17歳の時には音楽的廃人になっていた。と、長〜い前置きになった、昨日、我が東京都のボスが得意のしたり顔で、志村けんさんの死を使って都民に呼びかけやがった。ついつい、あの音楽教師を思い出したというわけさ。
昨夜のNHKには感謝で、涙は枯れ果てた。そして一夜明けて、朝のテレビでは志村さんの笑顔があふれていてあら不思議、涙って枯れないんですな。チャンネルロックは『8時だョ! 全員集合』を持っていた6チャンだ。『東村山音頭』を聞くたびに、今度は小学生の時がフラッシュバックする。今年の初めに聖地へ行った際にも書いたが、僕はドリフのメンバーになることを夢見た。人生で最初に描いた仮面ライダーになりたいという夢の次だった。人間というのは成長によって少しずつ夢がリアルになるんだな。って、ドリフターズもミュージシャンもどデカすぎてあまりリアリティはないか(笑)。
なんでドリフに入りたかったのかと言えば、ちょくちょく開催されたお楽しみ会ってのが大きい。クラス全員がなんらかの出し物を披露しあって過ごす、僕にとって小学校での最高の時間だった。運動神経が悪くて足が遅いからクラスのスターにはなれなかったが、この日だけは僕が主役だ。出し物のメインは常に僕だったと言っても過言でなかろう。女装してキャンディーズなんてやったり、もちろん電線音頭でもダンスした。パンチDEデートなんてのも仕掛けたことがある。要するに、人が笑うコンテンツをバシバシ打ち込んだのさ。そして最も頻度が高かったのが言うまでも無く、『8時だョ! 全員集合』ネタだった。
僕は必ず志村さんを演じた。お楽しみ会のメインコンテンツの最も美味しいところをいつも持っていった、今考えると嫌なやつだなあ。でもそれは、人が笑ってくれることに小学生ながらやりがいを感じていて、懸命だったからだ。今につながる仕事と昨日書いたのはそれで、雑誌を作るのも本質は変わらない。喜んでいただきたいからがんばれる。それを僕に叩き込んでくれた志村さん、ドリフに心より感謝しているのだ。昨日はコロナに対して憎しみしかなかったからバカヤローだったが、1日経た今日はこう締められる。志村けんさん、少しでもあなたに近づけるように努力していきます。ありがとうございました。
昭和40年生まれの私
TBSで志村けんさんが亡くなった病院が映りました
この裏手に見えた12階建て公務員宿舎に小学校時代
住んでいました
当時の国立医療センター 小野田さんが帰国した時の
テレビ中継が私のテレビデビューです
そんな当時 渋公の「8時だよ~」の公開放送何度も足を運び
楽しませてくれた志村けんさん ドリフの皆さん
当然家庭用ビデオなどない時代 生放送 テレビで見るような
アップのシーンはなくても遠目に観ても楽しく
いつでも繰り返し見られる今と違い
全てを見逃さないよう観る小学生も真剣でした
CM中の早業セット撤収などその場でしか味わえない臨場感
60分番組を60分で終わるぶっつけ本番感
本当に忘れられません
勉強もろくにしないのに「首ちょんぱ」が欲しくて
何ダースも買ったトンボ鉛筆 結局いかりやさんばかりでしたが
人気絶頂の時代けんさんと同姓ゆえ 周りからは当然
「けん」としか呼ばれず 少し嫌な思いもありましたが
それも思い出です
ドリフこそ 志村けんさんこそ 親が見せたくない番組だからこそ
われらの絶対なるヒーローでした
ご冥福を祈ります