2011年3月11日。

明日は発売日だ。僕のつぶやきは最新号をPRしまくる大編集後記になる。今回もしつこく紹介させていただく所存だ。が、その発売日は俺たちが忘れちゃならない日でもある。

 

あの日も『昭和40年男』の発売日だった。2009年の秋にテスト創刊して、翌春からは季刊誌として定期刊行物に昇格した。そしてさらに、2011年3月11日発売号より、今に続く隔月誌としてスタートしたのだ。が、日本は被災した。あの空気の中で、僕は自分で発行した雑誌が不謹慎にまで思えた。僕だけでない、そのくらい重くのしかかった被災だった。その翌月、タメ年の医師・川原尚行さんが宮城県に入って、懸命の医療活動をしているとの情報を得た。重苦しい空気の中で、発信者としてできることをと考えて僕は行動に出た。その活動レポートを掲載することにしたのだ。

 

 

加えて、現地の状況のレポートを掲載することにした。初めて彼の地に入ったのは約1ヶ月後の4月13日だった。写真はその時の気仙沼漁港の近くで、ページの冒頭に使ったものだ。変な言葉だが、完全なる破壊を見た気がした。1945年の夏も、きっとこんな惨状だったのだろうと勝手な想像をした。これから1年と少しの期間、復興の模様を定点観測しようと宮城県に隔月で入り連載した我々だった。

 

これは、被災なさった方々の胸に土足で入っていくわけで、今に至ってもこの時ほど痛い取材を敢行した日々はない。だが、ジャーナリストの端くれとして、遅々として進まない復興を知っていただくことと、俺たち世代にできることを模索しようと呼びかけることが、責務なんだと自分に言い聞かせた。

 

これは今も変わらない。原発の問題を含めて、まだまだ厳しい状況が続いている地域がたくさんある。我々にできることを模索していくことは、9年前と何も変わっていないのだ。小さな気持ちだけでもよいと思っている。風化させず、そして今できることを怠らない俺たちでいたい。

 


こちらの2点は翌年の春のものだ。懸命な作業は続いていたのだが、その進行はもどかしかった

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