雑然とするマイデスクの上に、発売直後のコイツ。美しい表紙を眺めていると、ついついチャリンコにまつわる想い出がフラッシュバックする。補助輪が外れたチャリンコによって、僕はそれまで得たことがない感動と大きな翼が生えた気がした。そして、男心を鍛えてくれたスーパーマシンだったのだ。きっと皆さん同様だろう。そして皆さんはどんなマシンに乗っていたのだろう? 僕のは表紙のようなフラッシャー付き自転車ではもちろんなく、家族共用のママチャリだった。クリーム色のいかにもファミリータイプのだっさいので、変速ギアもなしの正真正銘のママさんタイプだった。
ガキの頃、家にあった住宅地図を使って冒険に出かけた。こんな地図があったのは、我が家が電気屋だったからだろう。家々の名前や店舗名などが入っていた。この地図をたよりに知らない道を走るのは極上の楽しみで、仲間たちとちょくちょく知らない街へ出かけた。やがて地図はもっと範囲の大きな道路地図になり、何10キロの遠出をするようになる。埼玉方面までなんとなく走っているうちに悪ノリして、岩槻の叔父の家まで走ったなんて記憶がある。
思い出深いのは、中学校卒業記念で敢行した高尾山往復日帰りの旅だ。朝3時に出発して、市ヶ谷の交番で止められたりした。ゴールに定めた高尾山口へは最後にだらだらと登りが続き、敢行した仲よし3人組は疲労困ぱいで到着したのだった。あまりの疲労に声も出ずにうなだれる2人に、せっかくなんだから頂上を目指そうと促した。この一言をかけるのにはなかなかの勇気を要するほど、2人の背中は小さく丸まっていた。が、すったもんだの末3人は頂上を目指し、無事に登頂したのだ。この景色が疲労をぶっ飛ばしてくれたことを僕は忘れない。若さの素晴らしさも同じく忘れられない。
しかし残酷なことに帰路がある。ひたすら我が家を目指して重いペダルを漕いだ。やがて日が暮れて、夜の道を走りながら感じた疲労はそれまでのどんなものとも異なっていた。限界を感じながらペダルをこぎ、帰ってこられた僕は大げさに言えば少しだけ大人になれた。銭湯に行って健闘を称えあった俺たちで、スーパーママチャリは男を磨いてくれたのである。ってこれ、編集後記ネタの補足でーす。
チャリンコって蔑視的な意味で使う事のほうが多いような。
ヘビーメタルをヘビメタって言うようなものです。
自転車好きはチャリンコなんて言わないし、ギリギリでチャリですね。
あと、本には書いてあった気がするけど、フラッシャーやセミドロップが流行った時代は「ママチャリ」という言葉はまだ生まれてなくて、軽快車とかミニサイクルでした。
親戚の兄ちゃんのは騒がしいバーブレーキの付いたデカい実用車だったから、三角乗りで乗った記憶があります。