国民的歌番組『NHK紅白歌合戦』(以下、紅白) は、今年 令和元年の大晦日で70回目という節目を迎えます。近年ではかつてのような視聴率を獲得できず、人気が低迷していると言われていますが、昭和40年男世代の幼少期~青年期は、ほとんどの国民がテレビにくぎづけになったほど! そんな紅白の出場リストから、その年のヒット曲や話題の歌手などを振り返ってみましょう。第16回は、中森明菜が日本レコード大賞で2連覇を成し遂げた年、「昭和61年・第37回大会」です。
「仮面舞踏会」が… ライダーに!
紅白の伝説のひとつになっている「仮面ライダー事件!」。白組トップバッター、少年隊の曲紹介で、司会の加山雄三さんが、気合いが入りすぎた?ためか、「仮面舞踏会」を「仮面ライダー!」と言い間違えるという、思わず笑っちゃうハプニングが起きました。ご本人が本番前に、「言い間違えるんじゃないか」と危惧していたことが現実になってしまったようです。でも、加山さんのキャラクターのせいか、現場は凍りつくという感じもなく、なんとなく笑って許せてしまう雰囲気がありましたね。さすが、若大将! 言い間違えもなんのその、その後の進行を無事に務めました。ジャニーさんに至っては、「最高だったよ、加山さんに感謝しなよ」と言ったとか… 少年隊にとっても、忘れられない初出場のステージとなったことでしょう。その後も、他の歌番組などでこのエピソードを彷彿とさせる演出がされるなど、まさに最強伝説事件を我々は目撃したのでした。
田舎のプレスリーも初出場
吉 幾三 名義での再デビュー曲「俺はぜったい! プレスリー」から、9年目の12thシングル「雪國」の大ヒットで、見事 演歌歌手として、紅白初出場を果たした田舎のプレスリーこと 吉 幾三。「俺ら東京さ行ぐだ」などがスマッシュヒットするも、奪コミックソング路線で見事に花開きました! 一発屋 (二発屋?) で終わるかと思いきや、後に数々の名曲を生み出す正統派演歌歌手となりましたね。苦節…ということであれば、紅組も負けてはいません! なんと、デビュー20年目、シングル57曲目にして「女の港」が大ヒットした、大月みやこが初出場を果たしました。もちろん、一生歌手を続けても、出場できない人の方が多いわけですから、20年間かけてもこの舞台にでることができるということは本当にすばらしいことなんだと思います。後に平成になってから、日本レコード大賞も受賞することになる大月みやこさん、長年の苦労が報われたという言葉が本当に似合う実力派です。
不祥事発覚でサブちゃんが辞退
暴力団の新年会に招かれていたことが発覚し、大晦日の本番2日前に北島三郎と山本譲二が出場を辞退するという異例の出来事で、代理の出場をオファーされたシブがき隊は、年末年始の休暇を過ごすため滞在していたハワイから急遽帰国しての出演となりました。ハワイ休暇がつぶれて残念ですが、歌手としては年末もお仕事があるというのは人気者の証明ですから、繰り上げとは言えめでたしめでたしというところだったでしょう。辞退といえば、この年は郷ひろみも出場を辞退しています。こちらは「アメリカでのんびりするため」という、ビッグスターらしい理由によるものですが、これにより、かつての新御三家が一人も出場しないという、非常に寂しい紅白になってしまいました。これら諸々の事態が影響を及ぼしたかどうかは定かではありませんが、ついに視聴率60%を切ってしまうという1986年の紅白でした。
そんな ’86年、音楽シーンでは TUBEが3rdシングル「シーズン・イン・ザ・サン」でブレイクし、夏バンドのイメージを定着させ、ドラマタイアップでは、渡辺美里「My Revolution」、石井明美「CHA-CHA-CHA」がヒット! J-POP花盛りといった様相を呈していました。世間的にはどんな出来事があったかといえば、ダイアナ妃来日、上野動物園でパンダのトントン誕生、ハレー彗星が最接近、ホンダがF1でコンストラクターズチャンピオン獲得などなど、結構華やかな話題も多い年でした。一方で、スペースシャトル・チャレンジャーの事故、チェルノブイリ原発事故、三原山の大噴火などの深刻な事故や災害にも見舞われました。いつか弾ける終焉を知ってか知らずか、バブルの狂乱はこの年から一気に「イケイケムード」につき進むのでした…。
※当時のレコードジャケットなどは、
『昭和40年男』6月号増刊『俺たちの胸に刺さった 昭和ソング』
p.040~041に掲載されていますので、あわせてご覧ください。
(『昭和40年男』編集部・まつざき)