adidasの想い出。

野外イベントの仕事で必需品のスニーカーが限界を迎えていたところに、交換不可バーゲンで出されていたコイツを見つけて思わず購入してしまった。ネットでの買い物は基本的には好きでないおっさんなのだが、ついつい安いのを見つけてポチッとしてしまい、最近はその頻度が上がっている気がする。とはいえ、靴を買ったのは初めてである。

 

ガキの頃、adidasはものすご~く憧れたブランドだった。そのファーストコンタクトはヤッケだ。一般的にはウィンドブレーカーと呼ぶのだろう、フードがえりに畳み込まれている薄っぺらなあれだ。クラスの男子はほとんどが着ていた記憶があり、色は圧倒的に紺だった。突如として巻き起こったあのブームは一体なんだったのだろう。少し時を経て、adidasブランドのスポーツバックがガキどもの憧れになった。スポーツに使うというより登校用バッグだった。これも少しずつ愛用者が増えていき、いつの間にかほとんどの男子がそうなった。シェアは圧倒的にadidasで、僕も周囲よりだいぶ遅れてだったが、このブランド名の入った派手な黄緑のを買ってもらった。ヤッケとともに身悶えしながらねだり、勝利の日は今も忘れられないほどの喜びだった。

 

『福岡博多秘密基地』の幹事会メンバーで、博多と新橋、新宿に昭和歌謡バー『スポットライト』を展開する安東さんは、ここぞという時はadidasのヤッケでキメる!!

当時はブランド先行ブームとでも呼べばいいだろうか、スニーカーやジャージなんかも流行った。あいつはどこどこのを買ったとかそんな話題に上るほどだった。親から買ってもいいぞと金を握られた幸せなヤツに、仲間でゾロゾロくっついてスポーツ用品店に出かけては「あーでもないこーでもない」とみんなで見立てた。ジャージ1本買うのもビッグイベントだった昭和の下町だった。

 

よくよく考えると、僕がadidasブランドを所有するのは小学生以来かもしれない。薄い記憶なのだが、ヤッケとスポーツバッグしか持てなかった気がする。スニーカーの3本線は履いた記憶がないし、マラソンを始めてからもadidasブランドは縁が遠い。少なくともスニーカーは初めてだから、チョッピリかわいいこいつでイベント仕事をこなすぜ。

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