デュラン・デュランのメンバーやロバート・パーマーらで結成されたスーパーバンドによる唯一のアルバム『パワー・ステーション』は、華やかでバブリーだった80年代サウンドを象徴する名盤だった。
80年代に流行ったサウンドというと、みなさんはどんな音を思い浮かべるだろうか? 昭和40年男の僕はといえば、「バシャーン!」という派手なドラムのスネア音を、真っ先に思い出す。当時のサウンドは、とにかく華やかで騒々しかったし、バブルへと向かう時代の空気を見事に反映していたように思う。
そんな時代のサウンドを作ったひとりに、ボブ・クリアマウンテンという人物がいた。ディスコバンドの“シック”を手がけて有名になったエンジニアで、80年代になると、プロデューサーとしても大活躍。我々にとっては、ホール&オーツの84年のヒット・アルバム『BIG BAM BOOM』を手がけた人といえば、ピンとくるかもしれない。ここからシングルカットされ、全米ナンバーワンに輝いた『アウト・オブ・タッチ』というナンバーは、ノイジーでラウドなサウンドが、これでもかというくらいに鳴り響き、当時のニューヨークではこんな音が流行っているのかと、驚かされたものだ。
84年といえば、日本のアーティストでは、佐野元春が単身ニューヨークに渡って制作したアルバム『ヴィジターズ』を発表した年でもある。これもまた、ニューヨークのヒップホップカルチャーの影響をモロに被って創られた革新的な作品だった。当時の僕は浪人生で、ホール&オーツも佐野元春も、勉強の合間によく聴いていたが、この頃は海外旅行に行く余裕などなかったから、こうした作品を通じて、現地の空気を間接的に感じながら、ニューヨークは一体どんな場所かと想像していた。
派手なサウンドといえば、当時「ゲート・エコー」と呼ばれた、ドラムのスネアの残響音をバッサリ切ってしまうという斬新な手法もあった。ピーター・ガブリエルが最初に取り入れ、以降、多くのアーティストがマネをし、大流行。さらに80年代も後半になると、デジタル録音の普及にともない、打ち込みの無機質なビートが主流になった。10年の間にサウンドは大きく変化していったが、この背景にテクノロジーの進歩があったのは言うまでもないだろう。
さて、ボブ・クリアマウンテンに話を戻すと、彼がチーフエンジニアとして腕を振るっていたスタジオが、ニューヨークのパワー・ステーションだった。そして、「確か、同じ名前のグループがいたよね」と気がついた昭和40年男は、きっと多いはず。まさに、このスタジオ名を冠したグループが85年のシーンに登場し、大きな話題を巻き起こしたのだ。
人気バンド、デュラン・デュランのアンディ&ジョン・テイラーが、イギリスのソウルフルなボーカリストだったロバート・パーマー、シックのトニー・トンプソンらと結成したパワー・ステーションは、『サム・ライク・イット・ホット』、Tレックスのカバー『ゲット・イット・オン』を連続ヒットさせ、これらを含むアルバム『パワー・ステーション』もベストセラーに。結局、活動はこれ一枚きりで終わってしまったが、音楽シーンに強烈なインパクトを与えた。
特に印象深かったのが、そのサウンドだ。ロバート・パーマーが得意とするファンクに、デュラン・デュランのふたりがハードな味付けを施し、シック風のディスコテイストをまぶした彼らの作品は、とてもグラマラスで、それまでのロックとは異なる手触り。オイシイ要素をごった煮にしたような音は、さまざまなサウンドがあふれた80年代を象徴するものだった。
これで一気に知名度が上がったロバート・パーマーは、このチャンスを逃さず、翌86年に『恋におぼれて』で初の全米1位を獲得。モデル風の美女を従えたミュージックビデオも話題になった。
そのロバートやドラムのトニー・トンプソン、そして『パワー・ステーション』のプロデューサーだったバーナード・エドワーズも、すでに故人となってしまったが、パワー・ステーションの派手なサウンドは、我々昭和40年男の80年代の記憶とともに、今でもキラキラと輝き続けているのだ。
文:木村ユタカ
昭和40年、東京都生まれの音楽ライター。ロック、ソウル、日本のポップスなどを得意ジャンルに、音楽誌やCDのライナーに執筆。
※「昭和40年男」vol.28(2014年12月号)掲載記事