毎年大晦日恒例の『NHK紅白歌合戦』(以下、紅白) 、昭和26年に第1回が放送されて、昨年末で69回を数えた国民的な歌番組です。昭和30~40年代には視聴率80%を記録することもあった、おばけ番組でしたが、平成に入ったあたりから「紅白離れ」が顕著となり、その視聴率もついに50%を割り込み、「時代」の変わり目を感じさせるものがありました。その後も視聴率は少しずつ下がり、近年は40%前後で推移しています。2019年の大晦日開催で70回という節目を迎える紅白、そんな今だからこそプレイバック紅白!
昭和40年男世代にとって、昭和歌謡の黄金期だった 昭和46年から 昭和63年までのヒット曲を、紅白の出場者の一覧を見ながら振り返ります! スタートは、第22回 (昭和46年) です。幼少期の記憶に残るあの歌手のあの歌… 懐かしく思い出される曲もあるのではないでしょうか。誌面では書ききれなかったエピソードを交えながら「俺たちの胸に刺さった昭和ソング」に思いを馳せてみましょう!
出場歌手ピックアップ!
紅組トップバッター、初出場の 南 沙織は、当時まだ返還前の沖縄出身。同年デビューの天地真理、小柳ルミ子 (同じく初出場) とともに元祖アイドルのひとりでした。少し小麦色の肌が魅力的な彼女、曲は「17才」でしたが、6月のデビュー時はまだ16歳。今までにいなかったタイプの「アイドル」の登場で、デビュー曲は大ヒットし、この年の日本レコード大賞 新人賞も受賞しました。
一方、白組のトップバッター尾崎紀世彦は10年のバンド活動を経て、前年 (昭和45年) にソロデビューしたベテラン。この年3月に発売された2ndシングル「また逢う日まで」が大ヒットして、紅白初出場! あれよあれよという間に日本レコード大賞と日本歌謡大賞を受賞して、一気に実力派スター歌手の座に上り詰めました。
紅組では、翌年開催の札幌冬季オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」を歌った、トワ・エ・モアも印象的でした。この曲は黛ジュン、菅原洋一、ピンキーとキラーズ、佐良直美など他の歌手による歌唱もありましたが、最終的にはトワ・エ・モアが歌ったバージョンが最も人気だったということです。白鳥英美子さんの透明感のあるボーカルが、この曲のイメージにぴったりだったことが思い出されます。
白組、フォーリーブスは4回目の出場。初期のジャニーズを代表するアイドルグループですね。コーちゃん、ター坊、トシ坊、マー坊の4人組は単なるアイドルではなく、この当時からミュージカルに出演するなど、歌に踊りに本格派の実力を発揮していました。ちなみにコーちゃんは、元祖バック転アイドル! ステージで初めてバック転をしたのはフォーリーブスだったんです! 「地球はひ~とつ~♪」ずっと歌い継いでほしい歌です。
ザ・ベンチャーズとのコラボ第2作の「京都慕情」で初出場を果たしたのは渚ゆう子。芸能界入りして、苦節7年目の晴れ舞台でした。あのベンチャーズの曲と日本の古都・京都という、今考えても意外な組み合わせが、前年の「京都の恋」に続いて大ヒットを放ったという、日本の歌謡曲史上でも極めて珍しいコラボが大成功した瞬間を目撃したと言えるでしょう。
白組トリには、日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞した 森 進一が「おふくろさん」で登場! 後に 作詞家・川内康範と、歌詞を勝手に付け足したことをめぐり「おふくろさん騒動」が勃発、歌唱を封印された時期もありましたが、無事に和解しています。昭和の「母」ソングの定番中の定番! 猪俣公章作曲による日本人の心にしみるメロディは、永遠の「お母さんソング」ですね!
この他にも、GSブームが終わりソロソロデビューした 堺 正章が「さらば恋人」の大ヒットで初出場。一方でフォークソングが台頭し始め、はしだのりひことクライマックスは「花嫁」で紅白初出場! それまでマイナーだったフォークの存在をメジャーへと押し上げた代表曲のひとつです。
アイドル時代の幕開け
惜しくもこの年に出場できなかった前述の天地真理や、男性アイドルの元祖とも言える野口五郎、ソロデビューした沢田研二など、後に大活躍する歌手も数多く登場しました。そしてこの年はあの伝説のオーディション番組『スター誕生!』が始まった年です! ここから続々とアイドルが生まれていくんです。こうして振り返ってみると、1971年 (昭和46年) はまさに ’70年代への胎動が感じられる年だったと言えるのではないでしょうか。
※当時のレコードジャケットなどは、
『昭和40年男』6月号増刊『俺たちの胸に刺さった 昭和ソング』
p.006~007に掲載されていますので、あわせてご覧ください。
(『昭和40年男』編集部・まつざき)