ちょうど去年の今ごろ、編集長に返り咲く覚悟を決めた。7月11日発売号から再度タクトを振ることになり、あれこれ考えることは膨大だった時期だ。当然のことながら、そのど真ん中は部数増を目指すこと。それまでもプロデューサーとして関わってあれこれ思案を続けていたが、やはり現場でタクトを振るのとではその重みは異なる。編集長にとって部数増はマストで、減は絶対にあってはならぬとの責務を背負い込んだ。部数増に向かうために様々な作戦や要素を探り、そのひとつに極めてシンプルながら知名度のアップを書き出した。ならば宣伝すりゃいいじゃんとなるが、弱小出版社にそんな余裕はない。そして僕は常々、雑誌の最大にして最高の宣伝現場が書店だと考えている。だからいつも表紙に悩むのである。
知名度のアップ向けて、あまり性能のよくない頭がひねり出した答えは月刊だった。書店に並ぶ時間を増やすことこそが最良の宣伝になる。が、今の作り方で月刊化は現実的でなく、もしもそこに踏み込むなら大幅リニューアルとなる。そのリスクを背負っての勝負は、返り咲き編集長にとってはあまりいい選択ではない。そこで、総集編をシリーズにすることにしたのだ。これまで、プロレス、クルマ、モノ、野球と続けてきて、これで5発目となる。過去の記事をテーマでまとめると立派な特集本に仕上がるのは、記事に関わってきた編集者や執筆陣、カメラマンの汗がそれだけ詰まっているからだろう。今回もよく出来たと胸を張っている。
僕はこの写真のとおり、電気屋で生まれ育った。昭和の東京下町の荒川区にオープンしたのは昭和38年のことで、東京オリンピックでの需要を見込んだのだろう。それまでプラチナ万年筆に勤めていた親父の大勝負だった。その名も『北村テレビ商会』だから、まさしく主力をカラーテレビに据えての船出だったのである。
その翌年、妻を迎え入れ昭和40年7月に僕は生まれた。親父は必死にがんばってテレビや冷蔵庫、クーラーを売りまくって僕と弟を成長させた。僕ら兄弟はテレビに育てられたことになるのだ。そんな僕が平成最後に世に送り出す本のテーマがテレビとは、偶然にしてはよくできている。
僕自身にとって、平成は雑誌作りの時代だ。平成4年から動き出したうちの会社はすぐに雑誌の仕事に関わった。そして平成10年に初めて編集長としてタクトを振り、以降数々のバイク雑誌、音楽誌、そして『昭和40年男』を創刊させて以降はカルチャー誌を立ち上げてきている。紙媒体の力が弱くなったと、わかってない奴らはピーチクパーチク言っているが、僕は令和になっても元気バリバリで雑誌を作り続ける。
さて、今回の表紙は金八先生にご登場いただいた。今回最も多くのページを割いたウルトラ兄弟と悩んだが、ウルトラにしなかった理由は新元号の令和1発目となる5月11日発売号で知ることになるだろう、フフフ。
総集編が出るたびここでは毎度語ることで、このサイトのましてや僕の駄文に付き合ってくれているようなヘビーユーザー諸氏は買ってはならない。でも、間違って買っちゃってもいいように書き下ろしページや構成の工夫はずいぶん施している。総集編は知名度アップを目指していると前述したが、それ以上の完成度だからせめて立ち読みくらいは付き合ってちょうだい。明日、一部地域を除いて書店に並ぶぞ!!