昭和40年男の少年時代は、決して楽しいことばかりじゃなかった。今思えば笑っちゃうようなことでも、俺たちは真剣に悩み、戦っていた! ここではホロリと苦い「悲惨な戦いの記憶」を通じて、昭和40年代&50年代という時代を振り返ってみたい。
お坊ちゃま育ちを呪いつつ、赤いベストで理由なき反抗!
以下、元・ピンク・レディーのMIE『NEVER』を口ずさみつつ読んでくださいネバネバネバー(納豆ではない)。
俺たち昭和40年男が10代の頃、一大ツッパリ&不良ブームが起こった。横浜銀蝿や“なめ猫”が大人気! 高部知子が積木をくずし、伊藤麻衣子はカーリーヘアでドスを利かせ、杉浦 幸の人格豹変アイドルも大暴れ! ツッパることが男の勲章、俺たちは家庭や学校に特に不満がなくても不良に憧れた。だってそれがカッコよかったから!
だが間が悪いことに俺はけっこう成績がよかったので(にゃはっ)良家の子女が集まる私立中学に入ってしまった。地元の公立中学ではリーゼントなやつらが廊下をバイクで走り、鉄パイプでガラス窓を叩き割っているのに、友達もお坊ちゃまばかりだからそんなハイスクール落書きな感じは全くない。
しかもこの頃、我が家では母がケーキ作りを習い始め、俺も手伝ううちにケーキ作りが趣味になってしまった!
「みっちゃん(本名は道弘)生クリームを泡立てて」
「はーい♪」
「薄力粉をふるって、溶かしバターを混ぜて」
「はーい♪」
不良はどうした不良は! これではいかんと思った中2のある日、俺はついに行動に出た。不良の第1歩、詰襟のいちばん上のホックを外してみた!
「みっちゃん、どうしたの?」
「べ、別に、行ってきます!」
俺の不良化に気づいた母を振り切り学校へ。そのままホック外しは定着し、俺はめでたく不良の階段を1段上った。
だが後が続かなかった。不良の階段2段目はカバン潰し、しかし我が校の指定カバンは空色のスポーツバッグで、潰しても全く不良感が出ない。世間じゃ熱湯をかけて潰すとも聞いたのに、ああもどかしい!
そして不良化に欠かせないのが髪型チェンジ! だが我が校の男子は校則で丸刈りと決まっていて、リーゼントも剃り込みも遠い国の話。他にボンタンやアミアミのオバサンダルを履くなどの方法もあったが、さすがにそれはカッコ悪い。
中3の修学旅行では〝消灯後に女子の部屋に行く大作戦〟が計画され、大きな1歩を踏み出しかけたがそこはお坊ちゃま。
「やめよう。先生に怒られる」と結局中止。あそこで部屋に行っていたら浅井雪乃(金八の杉田かおる)状態に…なってねーだろうお坊ちゃまだから。
結局不良の世界にかすりもしないまま、俺は地元の県立高校へ。この高校はなんと、生徒の自主性を信頼して校則がなかった。規則がなければ破りようがない。俺は一生不良にはなれないのか…と思ったらある日、それは起こった!
校則はなかったが、冬場だけ妙なルールがあった。寒い日にセーターを着たら、その上に必ず学ランを着ること。セーターと学ランの両方を着ると暑いなら、セーターを脱ぐ。要はセーター姿で校内をブラブラするなってこと。なんでかなー。
だがその頃俺は、前にも書いたけど近藤マッチ先生をオシャレの師と仰ぎ、先生が『ヤンヤン歌うスタジオ』で着用した赤いベストを学校でも着ていた。
ある日の休み時間、赤ベスト姿で友達としゃべっていると、突然教室に、口うるさくて有名な倫社教師Oが入ってきた。そして赤ベストの俺を見ると、厳しい口調で言った!
「なんだ大野(本名)それは!」
…怒られた、素行を注意された、この俺が!「早く脱げ」とかプリプリ怒るOに構わず、ひとり陶酔にも似た達成感に浸ったのは言うまでもない。
以上、この物語は筆者がかつて青春時代に非行に走り、そして立ち直った貴重な体験をドラマ化したものである曽我笙子的に、って走ってねーってのネバネバネバー(納豆じゃない←さっきも言った)。
文:カベルナリア吉田
【「昭和40年男」vol.43(2017年6月号)掲載】
カベルナリア吉田/昭和40年、北海道生まれの紀行ライター。普段は沖縄や島を歩き、紀行文を書いている。11月にシニア向けの東京お散歩『おとなの「ひとり休日」行動計画』(WAVE出版)を発売。『何度行っても変わらない沖縄』(林檎プロモーション)と『突撃!島酒場』(イカロス出版)、『狙われた島』(アルファベータブックス)もヨロシク。 175cm×86kg、乙女座O型
オンタイムな昭和40年生まれのため、全てが笑えます。(^^)
「くさったミカン」シリーズはいまだにYouTubeで見ますもんね。私の中では武田鉄矢はあのまま、今の鉄矢おじいちゃんは別人です。(^_^)