昭和40年男の少年時代は、決して楽しいことばかりじゃなかった。今思えば笑っちゃうようなことでも、俺たちは真剣に悩み、戦っていた! ここではホロリと苦い〝悲惨な戦いの記憶”を通じて、昭和40年代&50年代という時代を振り返ってみたい。
スパルタ塾を食欲で乗り切り、めざせ開成一直線!
俺たち昭和40年男の高校受験は大変だった。翌年の昭和41年が丙午で、この年生まれの女子は男を食い殺しちまうってことで〝40年のうちに産んじまおう〟って人が多かったのだ。
そして迎えた高校受験。ガキの数が多いから倍率が高くなり、受験戦争は熾烈を極めた。今でこそポヤーンとした仕事をしている俺だが、中学時代はそこそこ成績がよくて、地元千葉県で有名なモーレツ塾の『船橋特訓教室』に行くことになった。小川ローザの「オー、モーレツ」しか知らなかった俺を、塾の教室で待っていたものは?
「開成合格!」と書かれたハチマキを、授業中頭に巻けだと? 今なら「アホか」と塾を辞めるところだが、素直だった俺はハチマキ巻いて授業に臨んだ。
この塾では不定期に、恐怖の儀式が行われた。塾の経営者の弟で副塾長のO田が、授業の見回りに来るのだが、コイツがまんまヤ●ザ! 生徒を全員起立させ、O田がガンを飛ばし大声で怒鳴る。
「なんだあそのハチマキの締め方わあ? それで××高校に受かるつもりがあるのかあ!」
ある時は女子生徒が使っていたキャラ仕立ての下敷きを、「受験には必要ない!」と言って、ハサミでジョギジョギ切り裂いた(今なら大問題)。またある時、特訓教室の全員が受けた模試の成績が悪かったと言ってO田が怒鳴り込んできた。
「なんだこの模試の成績わあ?オレに恥をかかせる気かあ!」
生徒を横一列に立たせ、O田が片っ端から竹刀で殴打! 体罰反対主義者だった父(故人)が猛抗議してひと波乱あったが、すったもんだの末、俺はその後もモーレツ塾に通い続けた。
そして受験を目前に控えた年末年始、俺はモーレツ塾開催の〝正月ホテル特訓〟に参加した。大みそかから1月3日まで新宿のホテルに泊まり込み、1日13時間の猛授業! もちろんレコ大も紅白もかくし芸大会も観られない。八代亜紀が『雨の慕情』で大賞を受賞したのも知らず、俺はシコシコと勉強に勤しんだ。
だがいいこともあった。朝飯はバイキングで、大好きな卵料理がズラリ。オムレツに目玉焼き、ゆで卵! 片っ端から取りまくり、マヨぶっかけゆで卵を納豆ご飯と一緒に食べながら「ホテル特訓も悪くないな」と思ったりもした。
3泊4日の特訓中、一応実家に電話を入れると、父が出た。
「がんばってるか道弘(本名)?」
「今朝ね、卵を8個食べたよ!」
…電話の向こうで父が、一抹の不安を感じているとも知らず、俺は卵漬けの特訓を終えた。そして迎えた開成受験本番!
なんと前日に大雪が降り、千葉の奥地に住む俺は、母と一緒に前乗りで都内ホテルに泊まることになった。だがそんな急に安ホテルが空いているはずもない。予約したのは高級ホテル、京王プラザ! 「ひょえー」。摩天楼にそびえ立つ高層ホテルに、無数に輝く客室の明かり。ゴージャスな夜景に浮かれた俺は、受験の緊張も忘れてテンションが上がっていく。
ホテルで高級ディナー、そして食後のデザートはホテル内の和風喫茶でフルーツあんみつ。おおっ、あんみつにイチゴが載っている。さすが東京の高級ホテル! そして食べ終わった後、恒例の実家に電話、父が出る。
「どうだ道弘、調子は?」
「お父さんすごいよ、あんみつにイチゴが載ってる!」
…父の不安は的中し、開成には落ちた。だが第2志望には受かり、その後そこそこのエリートコースを進んだが、まさかの物書き転身。自分に掛かったばく大な教育費を思うと誠に申しわけない。出版界も不況で大変だが、もうひとがんばりしようと思う今日この頃である。
ってかこの話のいちばんの驚きは「丙午だから国民挙げて出産予定を繰り上げた」ことかもね。いろいろどうかしていたね、あの頃の日本は。って今もけっこう変だけどさ。
文:カベルナリア吉田
【「昭和40年男」vol.41(2017年2月号)掲載】
カベルナリア吉田/昭和40年、北海道生まれの紀行ライター。普段は沖縄や島を歩き、紀行文を書いている。11月にシニア向けの東京お散歩『おとなの「ひとり休日」行動計画』(WAVE出版)を発売。『何度行っても変わらない沖縄』(林檎プロモーション)と『突撃!島酒場』(イカロス出版)、『狙われた島』(アルファベータブックス)もヨロシク。新宿Naked Loftで12月24日(!)にトークショー「日本のムカつく旅」開催するから来てねー! 175cm×86kg、乙女座O型