昭和40年男の少年時代は、決して楽しいことばかりじゃなかった。今思えば笑っちゃうようなことでも、俺たちは真剣に悩み、戦っていた! ここではホロリと苦い〝悲惨な戦いの記憶”を通じて、昭和40年代&50年代という時代を振りってみたい。
殺人現場を見たあとにラーメンとカレー!
俺たち昭和40年男はガキの頃、そりゃあもうよく食べた。あの頃は食べても食べても腹が減っていた。そして高校生の頃、その食欲はピークを迎えた!
まず朝から丼メシ2杯。オカズは必ず肉、それもハムエッグとかじゃ物足りない。最低でもショウガ焼き、トンカツも当たり前。時にはステーキをペロッと食べてから学校に行くこともあった。
通学スポーツバッグの中身の半分は巨大弁当! 風呂桶みたいな弁当箱に3段重ねの海苔ご飯、オカズはハンバーグなら5個、エビフライなら10本! 他にイナリ寿司15個とかサンドイッチ食パン2斤分とか、まるで4人家族のピクニックみたいな弁当をいつもペロリと平らげた。それも昼休み前に! そう、朝からトンカツ食べたのに、昼休みまでもたないのだ。風呂桶弁当は休み時間に全部食べるか、授業中に教科書を開いて立てて、目隠しして食べたこともあったよマンガみたいに。
そして昼休みは、友達と学校裏の亥鼻食堂にレッツゴー! ここでカレーとラーメン、またはラーメンとチャーハンなど必ず2品食べた。ちなみに当時、俺の高校の近くで千葉大女医殺人事件が起きて、殺人現場を見に行った帰りに亥鼻食堂に寄ったりもした。「犯人(殺された女医さんのダンナ)が入れ込んだフィリピン人ダンサーの名前はフェイっていうんだぜ!」とか知識を披露し合いながらラーメンをすすった。
さて昼休み後は5&6時間目をはさんで夕方5時半まで部活。この間は何も食べられないから、その後の腹の減り方はただごとじゃない! 校門前の下り坂を一目散にダッシュ、その正面には我が校の生徒が下校途中に必ず寄る鈴木屋(仮名)があった。
鈴木屋はいつも混んでいた。我が校は1クラス45人×1学年9クラス×3学年=生徒1,215人! それが一斉にほぼ民家サイズの鈴木屋になだれ込む阿鼻叫喚の地獄絵図! 菓子パンにカップ焼きそば他いろいろあったが、選ぶヒマなどない。人ごみのなかに手を突っ込み、つかんだものを買う! 飲み物はビンの『チェリオ』。カキ氷のイチゴシロップを炭酸で割っただけみたいな味で、焼きそばをグビグビ流し込むと、ようやく部活の疲れも癒えた。ちなみに最近母校に行ったら、鈴木屋が鈴木ビルに変わっていてショックショックヴァージンショックはシブがき隊、驚いたよ俺。
そして家に帰る頃やっぱり腹が減っていて、大盛りの晩飯を普通に食べ(トンカツ3枚とか)、そして一丁前に受験勉強もしたから夜食ペロリ(焼きオニギリ、トーストなど)。ってなわけでこの頃は1日6回メシを食べていた。俺だけじゃない、みんなそうだった。
そんな食欲まみれの俺たちを、根底から揺るがす事件が起きた。
「どくいりきけん たべたら死ぬで かい人21面相」
高校を卒業して浪人生活に突入する頃(大学落ちたんだよ!)グリコ・森永事件が起きた。そして犯人が青酸ソーダ入り菓子を置いたりしたんで、店からお菓子が消えてしまったのだ! 食べたい、お菓子が食べたい! どれくらい食べたかったかというと、当時通った予備校のノート見開きいっぱいにマジックで「お菓子食べたいよおおおっ!」と書いてしまうくらい。アレはつらかった。その数年後に米不足でタイ米しかなかった時期と同じくらいつらかった。
ちなみに最近、久々に会った高校時代の友人がポツリと言った。「鈴木屋の年商ってさ、億超えてたらしいぜ」。ひとり300円使う×1,215人×年間300日=1億935万円! そりゃビルも建つよなーチェリオ焼きそば御殿。億単位の売上を生むくらい、俺たちも腹が減っていたわけだね。どうかしていたね、あの頃は。
文:カベルナリア吉田
【「昭和40年男」vol.40(2016年12月号)掲載】
カベルナリア吉田/昭和40年、北海道生まれの紀行ライター。普段は沖縄や島を歩き、紀行文を書いている。新刊『何度行っても変わらない沖縄』(林檎プロモーション)と『突撃!島酒場』(イカロス出版)絶賛?発売中! さらに秋には珍しく、シニア向けの東京お散歩本も出版予定。近著『狙われた島』(アルファベータブックス)もヨロシク。新宿Naked Loftで12月24日(!)にトークショー「日本のムカつく旅」開催するから来てねー! 175cm×86kg、乙女座O型