昭和40年男の少年時代は、決して楽しいことばかりじゃなかった。今思えば笑っちゃうようなことでも、俺たちは真剣に悩み、戦っていた! ここではホロリと苦い “悲惨な戦いの記憶” を通じて、昭和40年代&50年代という時代を振り返ってみたい。
涼を求めてたどり着いた場所はなぜか銀行。
夏が来た。そして俺たちがガキの頃の夏は暑かった。クーラーなんて普及していなくて、俺たちは常に熱風と戦っていた。
まず学校が暑かった。特に筆者の地域は子供がすごい勢いで増えて小学校の教室が足りなくなり、3年生だった俺たちは急ごしらえのプレハブ校舎に押し込まれた。鉄の壁が熱をもち暑いのなんの! 当然教室にはクーラーどころか扇風機もなく、下敷きでパタパタあおぐしかない。なのに「パタパタうるさい」と女教師に下敷きあおぎを禁止され、汗を乾かすことも許されず、ハアハア言いながら授業を受けた。地獄だった。
当時はほとんどの家にクーラーはなかった…のだが、自慢じゃないが我が家には奇跡的にクーラーがあった。壁に埋め込む方式の巨大な代物で、取り付けるためにけっこうな工事をしたはずだ。でももちろん室温や風向き、風量の調節などできなくて、スイング機能におやすみタイマーなんて夢のまた夢。ダイヤル式ツマミを回し、強か弱を選ぶだけ! そんな微調整のできないやつだから、いったんスイッチを入れると部屋は氷のように冷えた。そして音がデカかった。ゴオオオッと響く轟音でテレビの音も聞こえない。電気代もたぶんすごかったから1時間つけたら消して、後は部屋の戸を開けず冷気を保つ、そんな感じだったと思う。音はデカいわ電気は食うわで、家でクーラーばかりつけてもいられない。夏休み、手っ取り早い涼み処は学校のプールだったが、浸かりっぱなしだとカラダがふやける。では他にどこへ行けば?
実は好きな場所があった。それは銀行! 母が行く時は必ずついて行った。銀行はクーラーでギンギンに冷えていて、しかも足踏み式の冷水器があった。ペダルを踏むと冷水が放物線状にチューッ! 顔全体に浴びて飲みまくった。「好きな飲み物は?」と聞かれ「銀行の水」と答え、赤っ恥をかいたこともあったが、でも好きだった。
当時は飲み物といえば水道水、だから冷えているだけでもご馳走で、麦茶があれば大満足だった。まして「ファンタ」や「バヤリースオレンジ」なんて贅沢品。そんな当時、俺にとって世界最高峰の飲み物はデパ地下の生ジュース。そごう千葉店地下1階生ジュース売り場のイチゴジュースほど美味いものはなかった。ジューサーにイチゴと細かい氷とミルクを入れスイッチオン、ドガガガッ。あまりにも好きで、家でもイチゴが出るとイチゴスプーン (今もあるのかな?) で潰し、さらに口に含んだ果実を歯で漉して (うえっぷ) 果汁をコップに搾り出し、冷やして飲んだ。まさか駅のホームに生搾りジューススタンドが立つ日が来るとは、考えもしなかった。
そして何よりも欠かせなかったのが、冷たいデザート。これまた当時はカップアイスなんて贅沢品で、定番はホームメイドかき氷。専用の丸い製氷器で凍らせた氷を、かき氷器の刃が欠けるまでキイキイいわせてかいた。極めつけは「シャービック」。我が家の冷蔵庫では、常にキューブ型製氷皿で凍っていた。ひと夏で千個くらい食べたと思う。今日はイチゴ味、明日はメロン味、来る日も来る日もシャリシャリと食べた。
昔の夏は暑かった。だが蒸し暑い夏の日、首振り扇風機の風を浴びながら麦茶を片手にシャービックを食べると、けっこうな幸福感に包まれたのを覚えている。
国産のルームクーラーが登場したのは昭和30年代。その後名前はルームエアコンに変わり、50年代にはおやすみタイマーが登場、マイコン (!) 制御による温度や風量の調節も可能になる。
今やどこに行ってもエアコンがあって当たり前、その排熱で気温が上がる逆転現象も起こっている。昔はアイスやジュースにありついた時のうれしさは半端なかったが、今の子たちはそんな幸福感を味わえているのだろうか。クーラーなんてなかったあの頃の方が、小さな幸せに満ちていた… なーんて言いながら、結局エアコンでキンキンに冷やした部屋で、コレを書いている俺である。
文:カベルナリア吉田
【『昭和40年男』2016年 8月号/vol.38 掲載】
カベルナリア吉田 / 昭和40年、北海道生まれの紀行ライター。普段は沖縄や島を歩き、紀行文を書いている。新刊『何度行っても変わらない沖縄』(林檎プロモーション) と『突撃! 島酒場』(イカロス出版) 絶賛?発売中! さらに秋には珍しく、シニア向けの東京お散歩本も出版予定。近著『狙われた島』(アルファベータブックス) もヨロシク。新宿 Naked Loft で12月24日 (!) にトークショー「日本のムカつく旅」開催するから来てねー! 175cm × 86kg、乙女座O型