昭和40年男の50号記念号の特集、昭和洋楽をソニーさんにCD化してもらった。僕が狙い撃ちで持ち込んだ企画だから、お礼を兼ねて担当者とささやかな打ち上げを開催した。セールスはまずまずのスタートでまだまだ売っていきたいとのこと。入っている曲が買うに至る決めてだろうが、ちょっぴり雑誌テイストなのはライナーノーツと曲解説で僕が8,000文字書いている。読み物として買ってくれてもいいぞ(笑)。
僕はありそうでなかったこの“昭和洋楽”という言葉を残していきたい。大げさに言えば、後世に伝えるのが使命だと感じている。それは僕自身がリアルタイムで経験できたことが大きい。ベイ・シティ・ローラーズに色めき立ったクラスの女の子たちを目撃したことから、僕の洋楽史が始まったのである。なんだかナウでヤングな風が突如吹いてきた。僕は今も昔も流行に疎い方なのだが、この風には敏感だった。なぜかはわからんが本能だったのかもしれないというほどかぶりついた。だがいかんせん、レコードを買う金もなく電気屋のくせに家で使う電化製品は下取りで引き上げた古いものばかり。劣悪な環境下で、自分なりに洋楽を追い求めた涙ぐましい日々だった。
一変させたのが『ダイヤトーンポップスベストテン』なるすばらしい番組を発掘したことだった。土曜日の午後はそれこそラジカセにかじりついて演奏者と曲を覚える努力をした。加えて、東郷かおる子さんが作る『ミュージックライフ』との出会いによって僕は完全なる洋楽ジャンキーになった。これでハマったのがクイーンなのだから、やはり僕は昭和洋楽の申し子だ。中1の冬にリリースされた『ジャズ』が初めて買ったアルバムで、聴き込むなんてもんじゃないほど聴いた。今も曲順どおりにデタラメながら歌詞で歌えるほどだ。そのクイーンがかつて日本語で歌った曲があると知った時の喜びったら。『手をとりあって』を聞きながら何度も涙したのは、日本人としての喜びだったのである。
その後も『ミュージックライフ』は世界に先駆けて日本から人気に火をつけるのを繰り返した。先日来日公演を観に行ったチープトリックやジャパンなどは、東郷さんなしだったらどうなっていただろう。これらも日本人としての喜びだったのだ。舶来崇拝の空気がまだ濃かった時代に、洋楽は完全なる舶来なのに日本文化に仕立てたのである。日本独自のチャートや帯、自由奔放なシングルジャケットや邦題などなどは世界に誇っていいだろう。シーンがうねりにうねっていた時代とシンクロする70年代後半から80年代前半は百花繚乱と呼ぶにふさわしく、その頃ティーンズの真ん中にいた昭和40年男はどんだけ幸せなんだとなる。その感謝を込めて僕は昭和洋楽をプロデュースしてゆく。昭和40年男編集長の責務じゃーっ!!