昭和40年に生まれた、いわばタメ年の商品やサービスを俺たちの思い出と共に紹介していく連載記事である。今回は、ウイスキーの『新ブラックニッカ』。高級酒として登場したロングセラー商品で、俺たちの酒の時間を彩ってくれた。
ヒゲのおじさんと共に自分の時間を愉しむ。
酒を飲めるようになったと実感したのは、いつの頃だっただろう。ビールを1〜2杯飲めたぐらいでは、そう思えない。やはり、ウイスキーのグラスを自然に傾けることができた時だった。
そんな、大人になったことをしみじみと感じさせてくれた、ウイスキーの代表格の一つが、昭和40年にニッカウヰスキーから発売された『新ブラックニッカ』だ。その頃、洋酒はまだまだ庶民には縁遠く、特別な存在でもあった。海外ブランドがステータスだった時代である。私が小学生だった頃を考えても、父親が洋酒のボトルをガラス戸が付いた棚に飾っておくような時代だった。それも、一気に飲み干したりするのではなく、何ヶ月もかけて空にしていくような感じだった。下手すると、お歳暮などで贈られたウイスキーが何年も飾られているだけで封を空けられることがないままだったりもした。当時、何がそんなに大事なのかと思ったものだ。
ほどよくヘビーでやわらかな香りだった
『新ブラックニッカ』はまさにそんな頃、誰もが手にできる存在のウイスキーとして誕生した。当時の広告にも、「1000円で買える最高級ウイスキー」と謳ってある。物価からすると今でいえば4千円を切るぐらいか。新たにスコットランドから導入したカフェ式蒸溜機を使用して蒸溜・熟成させたカフェグレーンと、北海道余市蒸溜所のモルト原酒をブレンドした、ほどよくヘビーでやわらかな香り。本格的なウイスキーがジャスト1000円で味わえるということから、当時爆発的にヒットしたという。
昭和40年代から50年代にかけては、ウイスキー全体の消費が大きく伸びた時期だ。1970年の年間消費量が13万2千㎘だったものが、その10年後、80年には36万㎘までになっている(国税庁『酒のしおり』より)。映画の1シーンを見てもそれがわかる。昭和30〜40年代に何本も作られた、森繁久彌、小林桂樹らが出演した『社長シリーズ』では、サラリーマンたちが勤務後に繰り出す店や、接待で使ったりするキャバレーやクラブで、接待の女性に作ってもらうのが、まさにウイスキーの水割りだった。
しかし、筆者がそこまで身近な酒だと思えるようになるには、長い道のりが必要だった。酒を飲み始めた頃は、正直に言ってウイスキーはおいしく感じられなかった。独特の苦みのような風合いもすぐには馴染めなかった。そのため、飲む機会というと仕事関係のときが多く、こちらはまだ若手であったから、大体は相手のペースで飲むことになり、グラスに次々と作られていく水割りが辛いのなんのって…。付き合い酒で、何となく薄めにして乗り切ろうと思ったときに限って、年上の人にドボドボと注がれ、ニッコリとした顔で「さあやれよ」と言われ、ほとんどストレートである濃い色をしたグラスをグッと飲み干さなければならなかった時のある種のあきらめ感…。
ましてや昭和40年男が20代のときは、「俺の酒が飲めないのか!」「若いのにだらしない」的なノリもまだまだ残っていたから、グラスを空けるしかなかった。ウイスキー自体の味の問題より、ウイスキーを飲むときの状況のほうが苦手だったのかもしれない。
マイペースで飲めたときウイスキーの味がわかった
ところがある日、ふとバーに立ち寄り、ウイスキーを「ロックで。今日はダブルで」なんて言って注文している自分がいた。しかもあろうことか、『バーボンじゃなくて、スコッチの×××、12年ものがいいかな』などとオーダーし、大きく丸い氷が入った背の低いロックグラスを手にして、まるで舐めるように舌先で転がしてゆっくり味わい、喉の奥に流したりしていた。あれだけ苦手だったのに、である。しかもデートとの相性もよく、こちらはウイスキーで、相手にはカクテルを飲ませて、いい雰囲気を作った気になったりもしていた。ビールでは、ああはいかなかっただろう。
考えてみると、酒との付き合い方が長くなり、自分なりに酒との間合いとでもいうものが作れるようになった頃から、ウイスキーを愉しんでみたくなったように思う。飲まされるのではなく、自分で飲むようになったときである。
そして今、酒量は20代の何分の一にもなってしまったが、時たま無性にウイスキーを味わってみたくなる。それも家飲み、ひとり酒で。ちょっとした乾きものを置きながら、のんびりグイとやる。自分のペースで、誰に邪魔されることもなく、ウイスキーと対話するように飲む。ずいぶん、酒との付き合い方が広がったものだ。
〜そして現在の商品。ヒゲのおじさんは「不滅」だ〜
※【「昭和40年男」Vol.16(2013年1月発売号)掲載】
文:舘谷 徹/昭和40年7月、埼玉県生まれのライター・脚本家。広報誌やWeb記事、ドラマやアニメの脚本を執筆。プラネタリウムで活動する市民グループにも参加中