「男は人生で3回しか泣いてはならぬ。生まれた時と両親が死んだときだけだ」。親父の教えだった。ただし、これは悲しみの涙に限定したもので、苦しみでは絶対に涙を見せてはならぬ。感動や喜びの涙は隠れてならいいという、わりと都合のいいものであった。歳を取ると涙もろくなるとよくいうが、みなさんはどうですか? 僕は40歳を過ぎたころから、感動でダーッと流れてしまうことが激増した。まあ、それまでも感動には弱いヤツだったけどね。
感動涙を分析してみると、いろいろなパターンみたいなものがある。単純にいい話に触れた時に、昔だったら泣く程じゃなかったのに流れていることが多い。つい先日、ビックコミック・オリジナル連載中のマンガ『あんどーなつ』に、電車で帰宅中にやられてしまった。それからというもの、あのマンガは電車読みを封印して、1人の部屋で読むようにしている。
作品のクオリティそのものが響いて流れてしまうのは最近になって増えたパターンで、サントリーホールで聴いたチャイコフスキーのバイオリン協奏曲なんか滝のようだったよ。三谷さんの映画『マジックアワー』も3回も見ているのにまだ慣れない。ラストシーンの後「こんなスゴいの作れる三谷さんはスゲーっ」という感動だ。なんかモノづくりを生業にしている人間にとって、これほどのお手本があるんだという感動なのである。
もうひとつはなんの理由付けもできない、胸に直接的に響くヤツですな。寅さんのオープニングテーマが始まった瞬間とか、何度泣かされたことか。なぜそこと思うでしょ。ダメなんすよ、あの声と曲と映像のマッチングに弱いんだよなあ。
先週は2本の取材で散々にやられた。染之助さんの芸人魂に触れられての涙はここで報告した通りで、もうひとつは残念ながら被災地でのことである。親父の教え通り、悲しみでは泣かないように我慢する。被災と立ち向かってがんばっている姿に、やられてしまうのである。それは前回の取材でも訪れたエリアで、瓦礫の撤去が2ヶ月分とは思えない程進んでいない、焼け野原のような光景がどこまでも広がる。そこを一台のトラクターが走っている。信じられない光景に思えた。その横へと行き会釈するとエンジンを止めて下りてきてくれた。「やるしかないからよ」と。60歳の真っ黒に日焼けした男性で、笑い飛ばしながら言った。大きな感動であるが、取材であるから泣いているヒマなんかない。こういう区別はできるモノなんだなあ。一通り話をうかがって車に戻ると、ボロボロと我慢していたものがあふれた。同行している武田にばれないように、窓の外へと向いてだ。
そんな泣き虫な男に、本づくりの現場は次々と感動を運んでくる。前へと進むパワーと一緒にだ。