昨夜、東京ドームの巨人阪神戦を観戦してきました。たまにはいいものですね! 場所柄、プロレス関連の取材をしたり、水道橋にある出版社へ足を運んだり、ラクーアに行ったりなど、近辺をうろつく機会はかなり多かったのですが、野球の試合を観戦する機会はなく、最後に行ったのはかれこれ20年以上前のこと。確か、新聞の勧誘の際にもらった券で行ったのが最初で最後のドーム体験でした。その当時は人工芝の緑がすごくきれいに見えたことをよく覚えてますが、昨夜は白っぽくまだら模様だったのが「あれ?」という感じ。人工芝張替えのタイミングもあるのかもしれませんね。それでも、ビール呑みつつお弁当つまみながら、試合を観たり、全然違う話をしたりと、リラックスの極みのような時間を過ごせました。周囲の応援の声に負けないように大声で話していたら声が枯れましたけども (笑) 。今度は天然芝の球場に行ってみたいと思いました。とくに広島はとてもよい球場だと聞いたので、いつか訪れたいものです。
さてさて、昨日のブログでは、昭和40年男たちの幼少時にはまだ残っていたであろう、ユートピア的な未来観についての記事を紹介しました。今日はその反対のディストピアな未来観の変遷を追った記事を紹介しましょう。
こちらの記事では、そうしたディストピアな世界を描いた作品の数々を紹介しています。我々の未来観にこれらの作品群がどのような影響を与えたでしょうか?
昭和40年男としては、小学校の低学年頃に小松左京 著『日本沈没』(1973年) の映画化 (’73年) 、テレビドラマ化 (’74年)や、五島 勉 著『ノストラダムスの大予言』(’73年)の大ベストセラーと映画化 (’74年)によって、世間が終末ブームに巻き込まれていくのを目の当たりにしています。また、オイルショック (’73・’79年) での騒動や、スリーマイル島原発事故 (’79年) 、水俣病訴訟や光化学スモッグの現出といった公害の社会問題化などのを背景に、科学の進展が引き起こす「負の側面」に注目が集まったことも大きな要因でしょう。そして、米ソの冷戦構造と核の恐怖が人類滅亡や地球滅亡といった未来像を強力に補強したことも否めないでしょう。
こうした出来事や社会問題を背景に、あらゆる作品で暗い未来・ディストピアが描かれるようになっていきます。最初は天変地異や核戦争によって、砂漠が広がる世界で暴力がすべてを支配するような荒廃した未来が到来する、という未来像が広がっていきます。『猿の惑星』(’68年) や『マッドマックス2』(’81年) などはその代表でしょうね。そして、SFに登場する宇宙船も『2001年宇宙の旅』(’68年) のような、まるでクリーンルームのように清潔なものから、やがて『エイリアン』(’79年) のように暗くて狭く、うす汚れている船内、砂埃や油にまみれたリアリティのある宇宙船が描かれるようになります。このリアリティは都市の描写にも反映され、ネオンで満ちあふれていたり、瓦礫のなかで人々が行き交ったり、ジメジメしていたり、といった混沌とした退廃の世界が登場してきます。『AKIRA』(’82年~) や『ブレードランナー』(’82年) はまさにそうした世界そのものです。
そして、こうしたディストピア全盛の時代は今も続いていると言え、ゲーム『バイオハザード』(’96年~) や『ウォーキング・デッド』(2010年~) といったゾンビたちが闊歩する世界をサバイバルする作品の継続的なヒットは、それを表しているという見方もできるでしょう。その意味で、昭和40年男はユートピアな未来像を体験した最後の世代で、それこそが特異なことだったと言えるかもしれません。本誌では岡田斗司夫さんにも取材をしていますが、彼が「未来バブル」という言葉を使ってこのユートピア幻想を表現しています。未来バブルを体験した昭和40年男だからこそ、下の世代に明るい未来を託したいものです。それこそが昭和40年男にしかできないこと、やってほしいことのようにも思うのですがどうでしょうか。
ディストピア作品にもがっちり取り組んでいる『昭和40年男』最新パストフューチャー特集号 (vol.49) は5月11日に全国の書店・コンビニで発売予定です。