僕の親父は平成7年に逝ってしまったからもうずいぶん経つ。戦後のことや我が家の習慣、人生の選択での場面で考えたことなど、年月を重ねていくことで聞きたいことがドンドン増えている。なんでもっと一緒に酒を呑み語り合わなかったのかと振り返る。まだ62歳の親父がまさかピンコロするなんて夢にも思っていなかったし、僕の年齢的にもっとも動ける時期だったからすべてを仕事に注いでいて仕方ないな。
先日、お客さんを浅草寺に案内して手を合わせた。そこで、付き合ってくださいと向かったのが浅草寺正面から見ると右奥にひっそりとある被官稲荷神社だ。ここは江戸の新門辰五郎の奥さんが病で床に伏したとき、京都の伏見稲荷神社に祈願して病気が全快し、そのお礼の意味を込め伏見稲荷神社から祭神御分身を勧請したとのこと。そしてここは、親父の商売を守ってくれているとのことで、幼少の頃によく訪れた場所である。そんな想い出の場所でありながら、なぜ親父がここを選んだのか知らない。と、そんな類いの知りたいことも年々増えているのである。
僕も商売を営んでいるから親父を習ってここでよく手を合わせる。その度に思い出すのは、かつて家族4人でお参りして帰りに大黒屋で天丼を食わせてくれたことだ。まだ外食が産業なんて呼ばれる以前の昭和のこと。天丼はかなりのごちそうで狂喜乱舞しながらいただいたものだ。今もしっかりと営業していて、店の前を通るとごま油のいい香りで小学生の頃へとタイムスリップできる。神社や墓のお参りにはご褒美をつけてくれた親父だった。
つい先日お袋と墓参りに行き、うまいものを奮発した。我が家の伝統を僕が演出しているのを親父も喜んでくれていることだろうが、彼にはほとんど孝行らしいことできなかった。せめてお袋にはと思うのだが、まだまだ足りないことに反省しきりである。
浅草に越す時に、仲良しの仲見世のオヤジさんから、
「浅草で商売するなら必ずここをお参りしなよ!」と
言われてから4.5日に一度はお参りしてます(^-^)v
返信遅れてスミマセン。
そうなんですね。浅草っこたちには大切な神社なんですね。でもウチの親父浅草っこじゃなかったもので、謎が深まります。