多くの昭和40年男が30歳を目前にしていた22年前の今日は、阪神淡路大震災が起きた日だ。目が覚めてテレビをつけると信じ難い映像が目に飛び込んできた。震災の恐ろしさはこれ以降も我々を襲い続けている。被災なさった方々のご苦労は計り知れず、僕らにできることは記憶していくことだろう。
あの日の記憶は僕のビジネスと強く結びついている。1995年1月17日は、朝イチでカワサキの国内販売会社に訪問を予定していた。東京新橋に支社がありメディア対応はここでまかなっていたのだ。明石にある本社や川崎重工の工場への影響は間違いなくあるはずで、訪問をためらったがともかく約束の時間に新橋の支社を訪ねた。今はお偉いさんになった当時の広報担当者にまず見舞いの言葉を述べ、新年の挨拶もそこそこに応接間でテレビに見入った。本社とは電話が通じず情報は完全に遮断されていて、心配しながらただ映し出される画面を見つめていた。仕事の話ができる状況でなく、そろそろ帰ると告げるとなにか提案があったのではないかとたずねられ、僕は新年の挨拶だけの訪問だったと言いこの場を去った。じつはこの日、今に続く世にも珍しいカワサキだけに絞り込んだバイク雑誌『カワサキバイクマガジン』創刊の提案が大きな目的だったのだ。
雑誌やバイクビジネスのキックオフは、ニューモデルが出そろう春がいい。新年度突入の4月に創刊させようとの目論みだったが、当然ながら被害が出てしまいこの年は引っ込めるしかなかった。やがて騒ぎが落ち着き、満を持して提案させていただき翌96年の春に堂々の創刊となった。今に続く雑誌立ち上げ人生のスタートだった。思えば、この世にも珍しい絞り込みが現在の『昭和40年男』に繋がったのかもしれない。創刊した『カワサキバイクマガジン』は、紆余曲折はあったものの今も発行を続ける長寿雑誌で今も強く支持される雑誌となった。
あの震災によって発行が1年遅れた記憶が鮮明に蘇る。そして2人でテレビを見つめていた重苦しい時間が同時によみがえる。その後も続いてしまった震災の記憶とともに、決して忘れてはならぬ。
大阪であの日、早朝に何故か目が覚めた。何か違和感があって、起き上がった時に軽く揺れが来た。
イヤな予感がして、窓を開けたと同時に大きく揺れて思わず声が出た。
停電が復旧してつけたテレビ画面には阪神高速が横倒しになっており、呆然としたのを覚えています。
ボランティアに行って、真っ暗な三宮を見て泣きそうになった。
あれから22年、早いものです。
年月の経つのは早いですね。