僕にとって幼少期のスパゲティは、ミートソースとナポリタンしか選択肢がなかった。洋食屋や授業さぼって行った茶店で、口のまわりを真っ赤にして食ったものだ。やがて僕らが女の子と本格的なデートをするようになった頃に、スパゲティは大きな変化を見せた。なにを持って本格的なデートと呼ぶかはさておき、高3のときに衝撃的な出会いとなったのがトマトスパゲティだった。その店は当時の彼女の紹介で入った、大田区蒲田とは思えないオシャレな店で『カンパーニャ』と名乗っていた。「ここのベーコントマトおいしいよ」と彼女。まだ前述の2つしか知らなかったお子ちゃまな僕にはその味の想像ができず、さらにミートソースが大好物だったからおおいに迷ったが、なんとなくこの誘いを断るのはカッコ悪いと見栄を張って応じたのだった。
「なんじゃこりゃー」と、口に運んだときの衝撃は今も忘れない。基本はトマトだけだという。イタリアのトマトの缶詰を使えばこんなうまいソースが作れると、まるでマスターの代弁者のように彼女は胸を張った。以来、すっかりトマトソースの虜である。
俺たち世代はスパゲティがイタリアンへと昇華していくのを、女の子との時間の中で見つめた。ざっくりといえば、10代の中頃から発展が始まり、ファミレスなどの追い風を受け、やがてバブルとともにレストランが乱立してデートマニュアルの主役になった。それまでも高級レストランとしてフレンチは確立していたが、新しさが若い男女を直撃して絶大な支持を得るにいたり、レストランのジャンルとして完全に定着して今に至る。東京の街を歩いていると、フレンチよりイタリアンの店の方が多い。我が家の食卓でもトマトスパゲティ以外にも、イタリア系のメニューはちょくちょく登場するほど身近だ。
イタリアンだけじゃない。料理の多様化が著しく進んだ時代を10代から20代に過ごした。俺たちは食でも革新の恩恵を享受している。そしてそれ以前の発展前に幼少を過ごしたことといい、恵まれた経験を積んできたのだなとつくづく思う。トマトスパゲティを食うたびに、10代の衝撃を思い出しては今も感慨にふける昭和40年男である。