デヴィッド・ボウイの追悼番組を録画して夜中にひとりで観ては、ホントにスゴい人だったのだなとあらためてため息ばかりついている。僕はロックミュージシャンをアーティストと呼ぶのが嫌いだと、先日もこのブログに書いた。だがそう呼べる人物が僕にとって2人だけいて、その1人がボウイだ。追悼番組を見る度にその気持ちが強くなる。数々の名曲は常に自分への挑戦、問いかけ、破壊、未知、創造などなど、番組を観ていると様々なキーワードが頭に浮かんでは消え、比較にならないほど凡才な自分にも強い刺激になる。
音楽家としてでない彼の魅力を初めて感じたのは『戦場のメリークリスマス』だった。高3の頃で、同じクラスの友達と必需品『ぴあ』で調べて銀座の映画館へと出かけた。後で考えると男同士で行ったのは微妙かもしれないが、事前に知ることのできる内容よりも、インパクトの強いテーマ曲やテレビCMの雰囲気に魅かれて僕らは選択したのだった。終った後は2人とも言葉を失い、普段バカばかりやっていたヤツらは神妙なまま帰路へとついた。普段ならば映画の後は遊びに繰り出す2人なのに、この日はそんな気分になれないほどのショックを受けた。きっと年齢的な部分も大きいと、以来、観るチャンスが幾度とあったが自分自身で封印した。10代の心が震えに震えた想い出は、美しいままにしまい込んだ方がいいと考えてのことだった。一連の追悼番組の中に、この映画の放映を見つけて録画したが、まだ観ておらずどうしたものかと思案している。もう50歳なんだから、あの日の感動を再検証していいんじゃないかとの気持ちが芽生えてきた。それになんといっても追悼じゃないかと。
ボウイから受けた影響が強いせいか、こうしたもどかしい想いが自分の中にたくさんある。そう、せっかく手に入れた新譜もまだ聴けないのだ。もう少し吹っ切れてから聴いた方がいいのではないかと思っているのは、『戦場のメリークリスマス』に対するもどかしさと同類である。悲しい知らせの直後に聴いた『ザ・ネクスト・デイ』が、ひどく鋭利になって心に突き刺さったのも、これらの想いに繋がってしまった。新譜は言うまでもなく病魔と戦いながら制作されたものだ。その言葉をまだ僕は受け取れる勇気がない。