先日たまたま入った、北海道料理をうたう居酒屋でこんな組み合わせに出くわした。なにがポイントで僕が喜んだかといえば、夏と冬の混在である。うちわが置いてある上の方に目を移すと、石狩鍋の文字が(笑)。数ある鍋の中でも石狩鍋といえば、江戸の人間には冬中の冬に感じさせられる。響きだけで寒くなるその文字を打ち消すうちわ。狙っているのかと疑うほど、まるで最近の東京の気候のようだ。
朝晩は冷え込むまでは言わぬが、上着がほしくなって来た。が、昼間はTシャツで十分という寒暖差があり、風邪に気をつけねばと思う日々だ。色の変わるのが早い木は、もう秋色になり始めた。秋を彩るCDの『南十字星』や我が家の定番となる鍋の湯豆腐はもう何度も活躍している。夏好きだと騒いだわりに、しっかりこの季節を楽しんでいる僕だ。
ただ、うまくなるはずの魚たちの不漁が目立つ。さんまはご周知のとおり、かの国たちの瀑漁でイマイチの状態が続いている。先日連れて行ってもらった寿司屋の親父さんは、何度も何度も魚が無いとぼやいていた。会社の近所のランチでよく世話になる寿司屋も同様のことをおっしゃっていて、両方とも養殖を使わないからかなり深刻らしい。
そこで養殖となるのは仕方無しなのだが、天然と大きく異なる魚種が多い。僕はお正月に鯛をおろすのだが、天然と養殖の差は歴然だ。縁起物だから元旦の食卓には欠かしたくないが、養殖だったら絶対に手を出さない。それは過去に1度買ったときのことで、腹を開けた瞬間にビックリした。腹わたに独特の臭みと、まるで僕のお腹のように脂がギットリとついていた。これを刺し身で食うのはさすがに嫌だなと、火を入れたほどだ。安い買い物でないから後悔したと同時に、2度と手を出さないと誓ったのである。もちろんすべての養殖を否定するわけじゃない。鯛だって今は昔ほどひどくないとも聞いている。
さんまの件ではかの国としたが、日本も瀑漁状態であることがよく指摘される。ノルウェーのサバがうまいなんて話が最近よく報道されているのは、問題解決の指導的な制度を採用しているからだ。ここでは詳しい話はさけるが、単純な話小さいのは獲らない。大切な食資源が危機にさらされているのに、ノルウェーと逆行しているのは大問題である。
食から感じられる四季もたくさんある。日本の豊かさの根源でもある季節の変化を、子々孫々楽しんでもらえるように変わらなければ、取り返しのつかない状況に陥ってしまう。なにが出来るわけじゃないかもしれないが、問題視しながらせめて世論形成に役立ちたいものだ。
たまに行く逗子のお店も全然シラスが入らないみたいです。
もうすぐ禁漁なのに(>_<)
シラスの話は取材先でも聞いてます。おかしいですよね。