阪神淡路大震災から16年の月日が流れた。
以前にも書いたのだが、この日を迎えるたびに、ハッキリと
思い出されることがある。僕が初めて企画した雑誌を持ち込んだ日だったのだ。
“カワサキマガジン”というカワサキだけのバイク専門誌で、
朝一番で当時新橋にあったカワサキの広報室に持ち込んだのだった。
が、当然そんな場合じゃない。というのも、カワサキの本社は
兵庫県の西明石にあるから、新橋も当然のことながら大騒ぎになっている。
ところが電話は通じないうえ、情報がとにかくないという状況で、
通された応接室で担当の方とずっとテレビを見守るだけだった。
「今日は新年の挨拶だったのでそろそろ失礼します」
この日のプレゼンは見送ったのだった。
後日、西明石の本社に行ったときに見た光景はすさまじいものだった。
本社そのものの被害はバイクの転倒など大きかったものの、
建物そのものはそれほどの被害は受けなかった。
が、向かう途中の車窓から見えた長田あたりはブルーシートだらけで、
あらためて地震の恐ろしさを知った。テレビでは見ていたものの、
やはり実際の現場で見るのとはずいぶんと受け方が違うもので、
本当に無惨なものだった。いま、街並みからはほとんど傷跡を感じない。
ただ心の傷にいまも苦しんでいる方が多いと聞く。お見舞申し上げます。
騒ぎが落ち着き、僕はこの本の企画をあらためて持ち込んだ。
当時のうちは、まだ出版社でなく企画会社であったから、
こうしてメインスポンサーにお願いするのと同時に
出版社と編集プロダクションにも持ち込み企画をまとめ込んでいった。
出版社の社長の一声で“カワサキバイクマガジン”となってしまったが、
ほぼイメージ通りに創刊することができた。97年春のことだった。
この本は企画面で処女作となったうえ、創刊2年後には編集経験のない僕が、
勢いだけで編集長に就いたという意味でも処女作になった。
今見るとなんともくすぐったいが、『昭和40年男』と相通じる部分もたくさんあふれている。
やはり人が出てしまうものなのだね。
と、そんな想い出までがフラッシュバックしてしまう、毎年1月17日なのである。