天丼と寿司、そしてうな丼。

うなぎカット子供の頃のごちそうといえば、ハンバーグにカレーにスパゲッティといった洋食系や、肉が使ってあるおかずはともかく万歳だった。夕食が魚だとガックリと落ち込み、1日が不幸に終わった気がしたものだ。そんな魚メニューの中でも、以前も書いたカレイの煮付けは最下点にいたように思う。

そんな肉食の子供にとっても、天丼と寿司、そしてうな丼はごちそうだった。今やカレイの煮付けがごちそうになったり、こってりラーメンが苦手になったりと、加齢によって大きな味覚の変化を感じている中で、今も大好物のままの和食のスーパートリオである。あまり裕福でなかった北村家において、これらを食する日は一大イベントであり心踊らせながら弟と一緒にがっついた。

「やった、今日は天丼が食える」と、心でつぶやくのは浅草寺に出かける日だ。東京荒川区の実家から浅草までは歩いて30分程度で、ちょくちょく出かけた。浅草寺参りはもちろん、裏にひっそりとある稲荷様に家族全員で手を合わせ、家業の北村テレビの発展を祈る。お参りが済むとご褒美のごとく老舗天ぷら屋の『大黒屋』に連れて行ってもらえた。我が家にとって天丼と言えばここで、ごま油で黒く揚がった天ぷらにたっぷりのタレがかかった、重い仕上がりがうれしかった。親父は刺身と天ぷらの盛り合わせで一杯やりながら、僕らが頬張っている姿をいつも幸せそうに眺めていた。

寿司は誕生日にお袋が張り切って握ってくれた。「今日はいいマグロをおごっちゃった」なんて、魚屋で仕入れてくる。5合もの米を炊きシャリ切る作業は、手伝う僕ら兄弟にとってもワクワクする時間だった。これをすべて握り、ほとんどを弟と2人で平らげたのだから食べ盛りってのはスゴイ。

家電店を営んでいてた我が家では、夏場、クーラーの取り付けが連日に及び、親父の疲れがピークになると「明広、うなぎ買っておいで」となる。ガッツポーズを作ってチャリンコを飛ばして向かうのは、三ノ輪駅から日光街道を南千住方向に少し行った左側にある老舗『丸善』だ。炭火で勢いよく煙を出して焼かれるウナギはまさに下町の味。行列を並んで4串と追加のタレを買い、大盛りのご飯にたっぷりとかけていただくそれは、夏の至福だった。

この3大メニューは昭和の食のスーパースターで、こんな原風景がハッキリと刻まれている。時は流れた今になっても、食す度にハッキリと思い出す。どれも懐にはやさしくないが、食うときは財布のヒモを思いっきり広げて楽しもうじゃないか。少々値が張るのは、江戸から続く豊かな食文化への支払いと思えば気持ちがよい。昭和40年男の粋ってヤツだな。

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2件のコメント

  1. 鰻なんて、田舎で食べた記憶がないよ。
    はもを食わされてた気がする。
    羨ましい。

    • 初めて鱧を食べたのは立派な酒呑みになってからでしたよ。逆にうらやましい。

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