大編集後記その四。野球世代の俺たちが見たひとつの終焉。

土曜日ですな。絶好の読書日和です。今すぐ『昭和40年男』とビールを購入して、すばらしい1日を楽しみましょう。というわけで(!?)発売直後の最新号のPR、大編集後記だ。

僕はジャイアンツが嫌いな子供だった。理由はカンタン。周囲の誰もが応援するからで、やさぐれあまのじゃくだったのだ。ライバルのタイガースを支持するようになったのは、小学生低学年の頃からだ。とはいえ、野球の話題の中心は当然ながらジャイアンツで、お茶の間にはその強さがブラウン管から毎晩のように流れていた。東京人の親父は当然ながらジャイアンツファンで酒を呑りながらそれを楽しむ。ほぼ毎晩だから、僕も選手の顔と背番号をよく覚えているのはタイガースの選手より圧倒的にジャイアンツの選手たちだった。

野球の中心だったジャイアンツにあって、さらにその真ん中にはONコンビがドーンと鎮座していた。他にもたくさんのスター選手がいたが、2人がいるからこそ光っていたのかもしれない。これほど超越した選手が2人もいたチームは以前にも後にもない。野球の歴史に燦然と輝くチームが、空き地で野球ばかりしていた頃に存在していたのだから、昭和40年男は幸せだ。

長嶋さんが選手を引退し、90番の背番号をつけてチームを指揮したのが昭和50年だ。この年に巨人が最下位になったのは衝撃だった。赤ヘルフィーバーが起こったこのシーズンの終盤で広島に初優勝が見えていた頃に、僕は後楽園に行った。友人と一緒にジャイアンツ側の席に座っていたところ、調子に乗ったカープファンが鯉のぼりを持って入ってきた。迎え撃つジャイアンツファンも黙っちゃいない。大人たちは大げんかとなり、野球ってのが大人をこんなに熱くするのだという事実が、乱闘の恐さとともに強く心に刻まれたのだった。だが、最下位に終わったその翌年に優勝するあたりはさすがだ。王さんは不動の4番バッターとして踏ん張り、やはりジャイアンツは強かった。

今回『夢、あふれていた俺たちの時代』で特集した昭和55年は、その王さんが引退した年である。まだまだホームランを打てる並の選手だったら十分な成績を残しながらバットを置くのは、王さんらしいと中学生ながらに思った。そしてこの年に優勝を逃した長嶋さんも監督を解任。僕らが野球を知り始めて夢中になった頃から光り輝いていた2人が同時にその座から去ったのである。ひとつの時代の終焉を見た、それが昭和55年だ。

昨日ここで紹介した猪木さんの『異種格闘技戦』も、この年でひとつのピリオドを打った。俺たちを熱くさせ続けてきたスターたちが同じ年にターニングポイントを迎えたことは、偶然ながら不思議な必然に思えてならない。俺たち中3。そんな年だったのである。

 S134-135

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2件のコメント

  1. 私が中3だった昭和55年度は、相撲界でも千代の富士が台頭し、貴ノ花、輪島が引退。
    アイドルも山口百恵が引退し、松田聖子が台頭。男も新御三家からたのきんトリオに人気が移った。
    世代交代が激しかった年だったと言えます。

    • そうなんですよね。西暦でも80年代に突入して、なにか潮目が変わったのかもしれません。その後バブルへと一直線ですしね。

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