うちの社が出版事業に手を出して10周年を迎えたので、
間にいろいろはさみつつ、これまでのことを振り返りながらつづっている。
2006年の夏が近づいていた。
禁断の果実を丸飲みした俺は、もうやるしかないのだった。
社内ではバイク雑誌づくりとの兼務スタッフを組織し、社外にもスタッフを求めた。
この時からのつき合いになる社外スタッフの中には、
現在に至って『昭和40年男』を手伝ってもらっている方もいる。
とにかく未知の世界に切り込んでいる自分は気持ちいいが、
ふと我に返るとたまりにたまった仕事に気が滅入ってしまう。
できるだけ考えないように、ただ前をみて突き進んだ。
昨日書いたことだが、音楽とは近すぎるから無理だと思っていたのだが、
実際に作業に入ると思っていた以上にすんなりといった。
というか、すんなり“行かせた”と言った方が近いかもしれない。
できるだけ色眼鏡をかけないで、目の前にある現象を飲み込んでいくように努力したのだ。
「俺の若い頃には」という比較も徹底的に封印した。
当初『音で喰え!』とのタイトルだったが、あまりにも直接的すぎて取材拒否が出たため
『音に生きる』と変更された音楽雑誌は、数々の失敗と失態を繰り返し
2006年10月30日に書店に並んだのだった。
編集後記を読みかえしてみると、
「右も左も上も下もわからず、ただやみくもに切り込んだ音楽業界」
と記してあり、苦労が鮮明に思い起こされる。
業界になんのコネクションもなく、すべてがイチから始まった編集作業だったのだ。
撮影現場ではスピーディーに撮影してしまうカメラマンの姿に感心させられ、
ライヴにご招待いただいては感動し、レコード会社勤務の方々にカッチョイイ業界人を感じさせられるという、
カルチャーショック(!?)を繰り返しながら作業を進めたのだった。
“きっと大丈夫”と自分にささやき続け、なんとかやり遂げたときは本当に心地よかったなあ。
版元として初めて、バイク以外の雑誌を世に送り出した瞬間だ。
『昭和40年男』創刊の3年前のことだ。
続くよーん