スイート・ホーム・大阪・神崎川。

看板20歳を迎える昭和60年に、大阪駅から阪急線で3つのこの街に住んでいたことがある。いろんなことに悩んだり泣いたり笑ったりの充実した時間だったから記憶に深く残っていて、第2の故郷のように感じる。土曜日に行なわれた『大阪ミナミ秘密基地』の集合時間の直前に、若干ながら時間が作れたので出かけてきた。

商店街駅を降りてまず向かったのは駅前商店街だ。パンの耳を10円で買ったり、腐りかけのバナナをもらったりと、金がなくてぶらついた当時のにぎわいはなく、半分近い店舗のシャッターが閉じていた。僕が世話になった店もいくつか無くなっていて寂しい限りだ。大阪駅からたった3つながら、地方都市でよく見かける巨大ショッピングモールに撃沈されてしまった商店街のような様相だった。当時聴いていた歌の数々を口ずさみながら、感傷気分でゆるりと歩いた。当時からあった古い文房具屋と婦人服屋の前では、ついつい立ち止まってうれしくなった。金がなくて入れなかった憧れだった中華料理店に入り、いかにも昭和な感じのラーメンに舌鼓を打った。

アパート腹が膨れたところで、かつて住んでいたアパートへと向かった。当時でさえボロだったから、30年近くを経てもう無くなっているかもしれないとドキドキしながら歩いていくと、どっこいしっかりと残っていた。当時のまんまにボロだが、元が元のせいか30年の月日は感じさせずに踏ん張っている。まるでタイムスリップしたかのようで、当時の喜怒哀楽がいくつも思い起こされた。いい友に恵まれた日々だった。東京に帰ってきてほとんどがコンタクトを取れなくなってしまっているが、みんなに元気にしているのだろうか。会いたい。とくに、この部屋をタダで提供してくれたタメ年の恩人のことを思い出しては、不義理している自分が情けなくなる。

電話ボックスここから少し先に行った神社の境内にある電話ボックスも、当時の喜怒哀楽がタップリと詰まっている。うまくいかない日々を愚痴るように東京の知人たちに電話をかけた。当時の彼女にはコレクトコールでかけまくって、請求で大目玉を食らったりと、この電話ボックスの中でいったいどれだけの時間を過ごしただろう。500㎞以上離れた東京の街と電話で繋がれる喜びを何度も噛み締めた、もうひとつの部屋である。

引越を経験していない、自分の街に住み続けられている幸せ者はホンのごく僅かな人たちで、きっと移民(!?)たちには合意いただけるだろう。住んでいた街にはどれもどっちゃりの想い出があるはずだ。いくつもの街を移り住んだ僕にとって、とくにこの神崎川は生まれた街と同じくらい愛している。ほんの1時間にも満たない散歩ながら、目一杯の懐かしさとほろ苦さを感じることができた。こうして振り返る時間を持つことは、ちょっと歳を取ったなと感じながらも、せっかくだからとおおいに楽しんだのだった。

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2件のコメント

  1. 私は台東区千束→足立区鹿浜→小金井市→バンクーバー→巣鴨→日野市→北海道静内→千葉県山武郡と渡り歩いております。

  2. 大阪ミナミ秘密基地お疲れ様でした。

    僕にもそういう街がありまして
    初めて独り暮らし…下宿でしたがしたのが
    福岡県の飯塚市でした。
    やはり食パンの耳や端を安く買ってきて…
    色々悩んでその街を出て行きました。
    その時の曲が「追憶の少年」でした。

    数年前仕事で寄ったとき既に街はゴーストタウン化し
    住んでいた下宿も何かの会社に変わっていました。

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