うちの社が出版事業に手を出して10周年を迎えたので、
間にいろいろはさみつつ、これまでのことを振り返りながらつづっている。
『タンデムスタイル』の創刊は本当に苦しいものだった。
それでも世に出た幸せを味わっていると同業者からの酷評が又聞きで伝わってきた。
「クレタ(ウチの社名ね)も終わったな」と、外注さんに言われたそうだ。
「一言相談してくれればこんな雑誌作らせなかったのに」
などという、仲の良い出版社からの声も寄せられた。
近しい人間があざ笑う声が、偶然聞こえたりもした。
どれもこれも屈辱的なものだった。
そんなにひどいか?
確かにとっ散らかっている感はあるが、まったくないバイク雑誌になったと思うし
たくさんのチャレンジを試みているじゃないか。
いつか見てろよー、同業者たち。
お前らがわかってないんだよと飲み込んだのだった。
まっ、俺は業界人を気取っているヤツらに向けて本をつくっているわけじゃなく、
あくまで読者にむけてつくっているのだと、誹謗中傷に突き刺されながらも突っ立っていた。
それに、実はそんなことよりもっと大きな痛みがあったのだ。
力を込めた創刊のしわ寄せで『ジパングツーリング』の作業が追いつかなくなり、
結果的に納期遅れという事態を引き起こしてしまった。
出版社として1冊目の本をリリースしたせいで、他社の本を遅らせたことになる。
『ジパングツーリング』の版元社長に呼び出され、今後は版元でつくることになってしまった。
きわめてマズイ失態だったが、まさか取り上げられるとは思わなかった。
創刊に協力してくれた方々やスタッフ、楽しみにしていた読者を裏切ったのだとあらためて気付かされた。
自分の仕事人生の中で、もっとも大きな反省を強いられた事件の一つだった。
画期的なアイデアのツーリング雑誌は、俺の手を離れた。
悩みに悩み抜いて作ったロゴマークも、そのまま持っていかれた。
編集部員たちも去っていった。
『調子に乗るんじゃない』
このときに得た教訓は、今も心に深く刻まれている。
だが、止まっているわけにはいかない。
気持ちを切り替え、2号目の制作にかかったのだ。
しかし笑っちゃうなあ、こうして書いていて今気が付いた。
『タンデムスタイル』の第2号は6月24日の発売で、夏特集を組んでいるんだよねぇ。
10年の時間が流れて、6月11日発売の『昭和40年男』第3号で同じことやっているのはいかがなものか?
34歳の自分と44歳の自分が、誕生日直前につくった2冊を並べてみて、
やはりずいぶんと成長したものだと思えたのは、こんなにも大きな痛い目にあったからかもしれない。
続くよ。
そうだったんですか?私は読者として創刊2号から購読を開始。その後、通信員兼ネタ提供ライダーとして編集部にもお邪魔してましおた。王子、ビッケがいた最盛期の頃、マロ吉さんにはお世話になりました。
特に意見はありません。
失礼しました。