出版社として歩んだ10年。〜いばらの道へ突入〜

なんだか長い連載になりそうになってきたな。
まんま自分の仕事史の一部公開だものね。
途中で取材記などをはさみながら、書いていきま〜す。
つうことでタイトルに対してまだまだプロローグな、出版事業に手を出す前の話だ。
俺にとっては、処女作に続いて第2作目の『ジパングツーリング』の創刊秘話である。

この創刊では、初めて編集部なるものを社内につくった。
と同時に、フルDTPへのチャレンジとなった。
この2つのトライはまさにいばらの道を逆立ちして歩いていくようなもので
今ほどでないにしろ本当の激務というのを知り、
ここを境にしてほぼ休日のない人生になってしまったのだ。
まずは編集部をつくるというトライから思い起こしていく。会社の移転から始まった。
15坪の赤坂4丁目の事務所を出て、30坪の1階に9坪のコンパクトな2階がセットされた
元赤坂1丁目の物件を借りた。
もうこれからして大冒険ですよ。
うわー、デッケー、これ大丈夫か? 猫の額から犬の額?
わけわからんがとにかくだ、『ジパングツーリング』はそれだけの大冒険だった。
まっ、今振り返ると『昭和40年男』に比べれば大したことないと笑えるから、こうして余裕で書ける。
偶然見つかったグッドサイズ物件で2階を編集部にしようと考えた。

社内に編集部をつくるといっても、まったく手を出したことがない領域である。
破れかぶれ戦法でとにかくこいつと仕事がしたいという人間にコンタクトを取った。
この時候補に挙がったのは2人で、自分自身が好きで読んでいるバイク雑誌の執筆者であり編集者だった。
キャラとしてこいつの方が合っているだろうという1人に連絡を入れてみた。
面識もなにもない。電話を入れ「ファンなんですよ」とバカバカしいセリフと共に
一緒に仕事がしたいと伝え、後日身長約185cmの大男と会い情熱をぶつけた。
ネックはやはり、出版社も難色を示した驚愕のA5というサイズだった。
バイク雑誌編集者にとって表現に困るサイズであり、まったく未知の領域といっていい。

ちなみに、後に広告面でも同じ壁が立ちはだかった。
「サイズが半分だったら広告料だって半分だろ」と。
うーん、ある意味正論だ。
ということがすべての場面で起こるのだった。
あっ、ちなみにA5って『昭和40年男』の約半分サイズです。

続くよ〜ん。

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で