終戦の日を迎えた。自分が過ごしている現在に対して感謝の気持ちを込めて手を合わせ、平和な時代に生きているからこその努力を多くの魂に誓う。もう何年も変わらない心でこの日を過ごす。
いつも後悔するのは、昭和7年生まれの親父の体験と記憶をしっかり受け継がなかったことだ。親父はどんな気持ちで昭和20年8月15日を迎えたのだろうか。そんなことさえたずねたことが無いままに、僕が30歳になる平成7年に逝ってしまった。じっくりと語り合うチャンスはいくらでもあったはずなのに、親はいつでもそこにいるものだと過ごしていたバカ野郎で、その機会を作らなかった自分の愚かさを反省し続けている。終戦を迎えた日は親父にとって13歳で、自分に置き換えると中1の夏だ。サザンの『勝手にシンドバット』に衝撃を受け、女の子が気になりながら夏休みに浮かれていた僕と比べたら、なんとも申し訳ない気持ちにさえなる。
親父の父親、つまり僕の爺さんは職人さんで、昭和14年の暮れに仕事納めの後に倒れたまま逝ってしまったそうだ。ナチスドイツによる侵攻が始まった年で、そんな動きの中に対してなんらかのメッセージを親父に発したはずだと勝手な推測をしている。突如として大黒柱になった親父は、下の弟妹3人を食わすために働き始め「父さんは小学校も出ていないんだ」とよく語っていた。まだ7歳でありながら東京の街で必死に働き、やがて勃発した戦争と徐々に鳴り響き始めた空襲警報、そして大空襲の恐怖とはいかに…。息子からその息子へとその体験を伝えるべきだったと、後悔は年を重ねるごとに大きくなる一方だ。
幼少の頃、まだ戦争の意味なんてわからない頃に興味だけで質問を繰り返し、その回答は断片になっていくつかが僕の中に残っている。軍人になりたかった。日本のお役に立ちたかったとの言葉はよく聞かされたが、いつも会話はそれ以上深くならず、戦艦大和や零戦はものすごい技術だったとか、そんな話へとスライドさせて留めていたのは、昭和15年生まれのお袋との意見の相違からかもしれない。語りたいのだけど語らない。もっと大きくなってさしで呑みながら。そんな感じだったのかなと想像したりする。
お袋は自分の父親の顔を知らず、物心ついたときにはモノがない時代で、戦争憎しとの思いが強い。自身の父親のことを「戦争に取られた」との言葉にするのは、その現れである。女手一つで3人の男とお袋を育てた婆ちゃんの言葉でもあった。きっと婆ちゃんも戦争憎しとの想いが強かったに違いなく、その経験も聞いておけばよかったと後悔するのは、婆ちゃんは僕が高校生くらいまではピンピンしていたから。家を守った女たちの戦争体験も、記憶に留めておく大事な要素だろう。せめてお袋の話はキチンと引き出してみようと、今日この日に想う。
昭和40年男にとっては、なんらかのカタチで戦争体験している両親がほとんどだろう。僕らがブリッジ役になり次世代へと伝えるのは、戦争を知らない子供たちにとって、もっと知らない子供たちへと遂行すべき重大な責務である。ましてや親から子へと、血のつながりで伝承すべきメッセージもきっとあるはずだ。健在ならば今すぐに聞き出して留め、子供の成長に応じて伝えるべきでないだろうか。