48歳の自分。

本日より48歳の人生がスタートした。『昭和40年男』では、昭和40年生まれと昭和41年の早生まれまでをタメ年と定義しているから、現段階でおよそ半分くらいのタメ年たちが48歳を迎えていることになるだろう。数字にしてみると長生きしてきたなと感じるものの、幼いときに描いていた大人ってもっと立派な人だった。今の自分とそのイメージのギャップったらとんでもなく大きいもの。先日の『浅草秘密基地』でも皆さんのコンセンサスを得て、一同深く頷いていた。

北村テレビ商会
じゃーん、この店が荒川区役所まわりの家々の生活を支えた『北村テレビ商会』だ。カワイイ子供はもちろん僕っす

親父をイメージしてみる。当時としては晩婚の方だろう、長男の僕は彼の33歳のときの子供だ。親父が48歳というと、僕は高校受験に向けて必死に勉強していた(ホントか?)15歳だ。その前年に進路を考える機会があり、親父の営む電器店を継ぐとばかり思っていたところ、個人商店は斜陽だから自分で人生を切り開けと言われた。とはいってもまだまだ親父の店は忙しく、子供心に斜陽なんてまったく考えられなかった。これからは大型量販店の時代になると言い、まさかそこにネット販売まで割り込んでくることまでは読んでなかったが、その言葉通り今の家電販売における個人商店の力は微弱なものになっている。長男は店を継ぐものなりと当時は疑うことがなかったから、継がなくていいとの言葉は正直ものすごくうれしかった。近所では、同じ年頃の息子たちが継いだ店も少なくない。そしてそのほとんどが店をたたみ、第2の人生を歩んでいる。

親父はこの頃から将棋の駒を彫り始めた。差す方が趣味だったが、もともと手先の器用な男だったから見る見るうちに腕を上げ、後には末端価格3ケタ万円でも取引されたことがあるほどの駒師となった。僕ら家族は差すことと同様の趣味としか見ていなかったが、徐々にスケールアップしていく職人ぶりったらはあっぱれで感心させられ続けた。ためしにとちょいとネットで検索してみたらありゃビックリ。オークションに出品されていたり、お褒めの言葉が出ていたりで、亡くなってもう18年が経つってのに生きた証をしっかりと残しているじゃないか。

そんな親父を思い浮かべながら比較しても、なんともだらしない自分がいる。40代の後半といえばしっかりと根を張り、人生に迷いなんかないしっかりとした道を歩んでいると思っていた。まさかまさか、タメ年どもとバーに集って次々と下ネタをぶちかましている自分などとは、まったく想像していなかった。そしてまだこの歳になってもでっかい夢を追っかけているなんて…。これはあの歳で駒を彫り始めた親父譲りだとすればいいかな。

また、この歳になるとどうしても意識してしまうのは信長である。彼が好んだとされる『敦盛』からの一節「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」が頭に浮かんでくる。幼少よりなんとなく意識してきたこの言葉の歳が、いよいよすぐそこになっちまった。タメ年の皆さん、くれぐれも謀反の矢には気をつけましょう(笑)。

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1件のコメント

  1. 昭和40年生まれは、現代日本の最悪世代のくずだから仕方ないですね。

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