大編集後記その六。「ブティック 竹の子」

いよいよ発売日が迫ってきた。次号の紹介、大編集後記を続けさせていただこう。連載特集『夢、あふれていた俺たちの時代』では、昭和53年を取り上げている。多くの昭和40年男は中学に入学して、大きな環境の変化を味わった年じゃないだろうか。そんな自分の想い出とオーバーラップさせながら、ぜひ楽しんでいただきたい。

ブティック竹の子この特集では毎回『あの日を再検証』とした、昭和40年男が興味深く感じ取った現象を詳しく解説するページを設けている。今回は6つの現象を扱っていて、『西遊記』についてはすでにお伝えしたとおりだ。今日はそのひとつとして『ブティック・竹の子』の記事を紹介したい。同店は竹の子族大ブームの牽引役となったブティックで、この昭和53年にオープンした。そして翌年頃から竹の子族が出現し始め、昭和55年頃にそのブームはピークを迎えた。

僕ら昭和40年男にとって竹の子族は、ちょっとお兄さんお姉さんが全盛時を謳歌した文化で、ブームの後期になって参加していたタメ年たちはけっこういるかもしれない。ただ、極端な東京ローカル文化であり、一時は飛び火もしたそうだが、たいした騒ぎにならなかったようだ。東京の原宿という特異なエリアによって成立した、地域発信エンターテイメントカルチャーなのだ。

当時の原宿が最高にエキサイティングだったことが、竹の子族を生み出すのに一役買った。表参道を歩けば、東京どころか世界の最前線のファッションを感じることができるのに、1本裏の竹下通りは甘いクレープの香りに包まれたガキども御用達の店が並んだ。大きな表情の違いを見せるのに、双方の人々を飲み込んだのが代々木公園そばの歩行者天国だった。これらがギャラリーとなり、若者たちは皆主役になれた。

荒川区の田舎者の僕が竹の子族を生で見た時は、すでにブームは下火となっていて、テレビで報道されたような全盛期は知らないままに終わってしまった。ローラー族とバンドが主役の座を奪っていた頃に、僕らのバンドもホコ天で営業活動を始めたのだった。その後、バンドブームが肥大していき、貧乏バンドの脆弱な機材で立ち向かえなくなるまで、毎週のようにホコ天でロックしていた。すっかり少数派となっていたカラフルな竹の子族の皆さんに、悲哀を感じた僕だった。それが、僕にとっての竹の子族の想い出だ。

竹下通りから文化発信をした『ブティック竹の子』のオーナー、大竹さんのインタビューを中心に構成した当時の文化を知ることができるページは、これまた必見ですぞ!!

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で