大編集後記。キカイダーな表紙づくり(1)

表紙は雑誌の顔であることはいうまでもない。
これまでのこのブログで何度も書いてきたが、
今回の表紙づくりに絡ませて熱い想いをお届けする(いらねえよってか)。
まずは前提の話からお付き合いいただこう。

究極の表紙は“レッド・ツェッペリンⅣ”のジャッケットだ。
いきなりトートツな話だが、あのアルバムジャケットには、
曲名はおろかバンド名にいたるまで、ひとつの文字も印刷されていない。
だから発売当初はアルバムをどう呼ぶべきなのか、
すなわちタイトルがなかったとのことで、後に“Ⅳ”に落ち着いたそうだ。
それまでの3枚で大きな成功を収めた彼らであったが、
3枚目に関しては1、2枚目の絶好調ぶりからは少々様子が違っていた。
なんてったってリアルタイムじゃないからこの辺は文献頼りで情けないが、
確かに1枚目、2枚目と流れを追って聴いていくと、
3枚目への期待は相当なものだっただろうことは容易に想像が付く。
その大きさに対しては、やや小振りな作品かもしれないな、フムフム。
まあ、リアルタイムで聴いたわけでない俺にとっては、
十分にすばらしい作品なのだが。

そんな状況を踏まえてなのか
最高傑作を創ろうとした彼らの意気込みは相当なものだったのだろう。
“天国への階段”に象徴される、ディテールにまで神経を張りめぐらせたような音づくりは、
それまでの3枚を過去のものにするのに十分値するクォリティだ。
もちろん好き嫌いでいえばこの4枚は多いにファンたちの議論を盛り上げるものだが、
変態的なこだわりという意味では過去の3枚とはあきらかに異なる存在だ。
そんな気合いと世界の頂点にいるという自負、
ロック自体がアートとしてその進路を見いだしたかのような時代の流れ、
など上げたらきりがないほどの様々な要因が絡まり合ってのうえに、
自分たちという存在そのものを俯瞰でとらえて主張を練り上げた。
「俺たちのアルバムに文字なんかいらない。なぜなら俺たちはレッド・ツェッペリンなのだから」
同時に「売れるから好きなことをやらせろ」とでも言っているかのようだ。

レコード会社サイドは猛反対したといわれる。
そりゃそうだ。
1枚でも多く売りたいのは当たり前。
わざわざ誰の作品だかわからなくするようなことに賛成するはずがない。
だが、ジャケットを含めた決定権がツェッペリン側にあり、
結果的にはこの文字のまったく入らないジャケットはリリースされ、
話題が話題を呼び大成功したというストーリーだ。
 「ツェッペリンはアートにまでこだわった」
 「商業的価値を無視して自分たちを貫いた」
この一件はこんな評価も得たのだった。
もちろん作品ありきでのセールスだったことはいうまでもないが、
ジャケットというヤツは雑誌において表紙に相当する、ものすごく重要なモノだ。
とくにこの時代は。

レッドツェッペリンの中心人物であるジミー・ペイジという人は、
とても頭のいい人である(断言)。
ジャケットにいっさいの文字を入れないという表現にいたる背景には、
実は彼の中にしっかりとしたマーケティング・ロジックがあったと思う。
先に述べた通り、自分たちの価値や存在そのものを俯瞰して的確につかみとっていた。
そのデータを組み合わせて巧みにマーケットインした結果であり、
それが得意な人なんだと俺は常々主張している。
だからあれはアートワークを利用した、上質の“クリエイティブ”だったのだと。

そんなジャケットがなぜ俺の表紙づくりの究極なのか?
ちょっとね、この話長くなるから少々小出しにさせてもらって、明日に続くのだ〜。

すばらしいアートワークだよ。もちろん作品としてもロック史を変えた1枚である

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