現在発売中の『ビックコミックオリジナル』に、原作者で今年の2月に亡くなった西ゆうじ氏の追悼記事とともに、編集部からの大切なお知らせとして今年の正月に発売となった号で終了となったことを正式発表した。残念だ。大好きな作品だった。あそこまでの人情ものはそうそうないうえ、江戸の粋ってヤツが今の世の中に大切なんだと訴える姿勢に好感を持っていた。加えて、伝統を重んじる心、近隣の方々に気を配りともに生きていく姿勢と、どれもこれも忘れかけていた、そして忘れてはならない日本の心だった。浅草が舞台となっていることも親近感を覚えていた大きな要素である。
追悼文によると、亡くなるわずか5日前にこれからの展開を病床から編集部に語ったそうだ。それを編集部でまとめたいとの申し出は断られたとのことが綴られている。編集部としてはそうしたいだろうが、原作者としては許せないだろうな。イキイキとしたキャラクターたちを今後どう引っ張っていくかの構想は、西さんのなかにたくさんあっただろうが、そのキャラクターたちがふたたび輝きを取り戻すことは無くなってしまったことになる。長く連載を続けてきて、さぞ無念だっただろう。
昭和40年男たちは、自分の死についてどう考えているのだろう。悲しいことに身近なところで触れることが増えていて、考えさせられることがきっと多いだろう。僕はつい先日、バカバカしいことに勝手に自分のガンを疑ってずいぶんと考えさせられてしまった。仕事のこと、家族のこと、子供のこと…。いろんなことを考えながら(本当にバカですな)死を考えることって、生を考えることとほとんど一緒である。いろんなしがらみは、生と死に対して同じ意味を持ってまとわりついているのだなと。ならばと1枚1枚といろんなもの捨てていくと最後に残ったのは親の存在であって、これだけは同じ意味にならない。生をもたらしてくれた親に、我が子の死で悲しませるのだけはいかんのである。
もうひとつ、最近よく考えさせられるのは、死んで悲しまれるよりも、生きて愛されることの方がよっぽど難しくありステキだってこと。懸命に生きることでそれを得ることには大きな価値があるのだ。僕ら昭和40年男は50歳を目前にして、もう一度本当に生きることを考えて進みたい局面を迎えている。生きて愛されることを目指してギアをどこまで上げられるのか。死を考えることよりも、まずはこっちに時間と力を注がなくてはならない。
西さんが生を吹き込んだキャラクターたちも、もっともっと愛されたかったに違いない。