「ブログの写真見てモニターを殴ってやろうと思ったよ」
「北村さんとは口を聞かないことにした」
昨日は楽しい『浅草秘密基地』で、この宴としては多くの方々にみえていただいた(この写真撮影時にはすでにずいぶんの方が帰っていた)のだが、何人かの方から入ってくるなりこんなセリフで攻められた。昨日の編集長のつぶやきであげた、鮎川誠さんとシーナさんと一緒に撮影した写真が原因だった。
なにがそんなに腹を立てさせたのか。音楽に限ったことじゃないが、堂々と好きだと名乗るのが恥ずかしいことはよくある。「えーっ、あんなの好きなの」とちょっと小馬鹿にするのはラクチンなことであり、とかく肯定より否定の方に力があるものだ。「○○が好き」の○○にアーティスト名をはめていくと、ほら、ちょっと恥ずかしい名称が多いでしょう。それとはまったく逆の存在もいる。シナロケがまさにそうで、ファンでいることを誇れてしまう数少ない存在だ。ヒットシングルが何曲もあるわけじゃないし、クラスの誰もが聴いていた存在でない。だが、一度でも目撃したことがあるならファンを名乗ってしまいたくなる問答無用のカッチョよさと痛快さがあり、昭和40年前後のロックファンをいまだに増やし続けているのではないだろうか。そんなファンたちからの罵声が浴びせられた夜だったのだ(笑)。
80年前後に勢いよく出てきた連中をひとまずニューウェイブと呼び、その後マスコミによって様々な言葉にはめ込まれていった。シナロケはめんたいロックと呼ばれた。めんたいロック? 75年にデビューして福岡から全国へと名を轟かせたサンハウスが源流となり、その後元気なロッカーたちが後を追うように続々と登場した。解散後は俳優としての道を歩む陣内孝則率いるロッカーズや、多くのミュージシャンに影響を与えたルースターズ。昭和40年男にはなじみ深いザ・モッズなどなど、大勢力を音楽専門誌が中心となって、この九州勢にめんたいロックとの称号を与えたのだ。そのひとつがシナロケであり、鮎川さんは「なんでめんたいなんじゃ」と笑ってらした。時代は「サブカルのようなもの」に飢えていて、若い連中はそんな新しい流れを積極的に追い求めていて、ピタッとハマったのだった。これらバンドの勢いは、サブカルがバブルに押し流されるのと同じように失われていくのだった。そのなかにあって、精力的なライブ活動を続け、常に新しい感性を取り入れながらも己たちを貫いていたのがシナロケである。
変わらないとの評価を得るには、変わり続けなければならない。僕らも年輪を重ね、その困難さが痛いほどわかるようになった。だから、鮎川さんが黒のレスポールを弾く姿に、男として本質のカッコよさを見出して尊敬してしまうのだ。昨日の『浅草秘密基地』では、鮎川さんのような64歳になろうとの話になった。光のあたる世界にいるからどうこうじゃなく、自分のいる世界でいかに輝き続けるかが重要なんだと頷き合ったのだ。
てなわけで(どんなわけで?)、そんなロック好きの男たちのひんしゅくをまた買おうじゃないか。昨日と別カットでどうだーっ(撮影・編集部葉月けめこ)。
モニター画面にヒビが入りました・・・
請求は「北村」宛でいいですか?