死について考える。〜その9 追悼〜

なぜ?
そればかりがグルグルとめぐってしまう日々が続いた。
俺だって死んでしまいたいくらいつらいことは、何度も経験した。
それでも、自殺という選択にはならないのは、
悩み抜いている人間に言わせたら幸せなことかもしれないが。

先日、尊敬する先輩から
「40過ぎて同じ呑み方をしているのはゆるやかな自殺」
との名ゼリフをもらった。
確かに体に悪いことばかりしている。
徹夜やろくに練習しないフルマラソン、大酒に大食い…etc。
でもそれらは今をめいっぱい生きるためにしていることで、
体を痛めつけてはいるだろうが心は大いに喜んでいることだ。
そのために寿命が縮まることは仕方ないというのは、ナオキと同じことなのかもしれない。
自分に都合よく生きているだけなのかもしれない。

だがね…。

いくつかの死に直面してきて、親との別れは乗り越えられた。
手をあわせるたびに、自分を育ててくれた感謝の気持ちや
仏様になって見守ってくれているのだろうから近況報告だったりと、
痛みはやがて癒えていく。
大切な仲間の死も、どこかで仕方ないなという部分があったり、
時間の経過とともに “ヤツの分まで” という気持ちに変えていける。
いい想い出として自分の中で変化させていく努力をする。
だがナオキの場合はそうはいかない。
ずっとずっと無念さが残り、引きずった。

4月19日の命日になると、浩平と連名の香典袋をヤツの家のポストに入れ、
外から手を合わせて呑みに行く。
ひとつ余計にグラスをもらい、ビールを注いで一緒に呑む。
いつも涙が流れた。
心に大きな大きな想いを背負ってしまったのだ。

でもいつまでも悲しみだけを背負っていてもいかんと、
去年は命日前夜に追悼ライヴを行なった。
多くのミュージシャンが参加してくれ、
ヤツにとってなじみ深い曲を選びみんなで演奏した。
ここにはヤツの父親と妹も来てくれ、ナオキがこの世に残した軌跡を
生きた証を見てもらうことができた。
これまた自分にばかり都合のいい話だが、
少しだけ荷を降ろせた気がしたのだった。
翌日の命日は、浩平と2人でしみじみと呑みそして泣き、
でもこのライヴをやってよかったと互いにたたえ合った。
5年の月日をかけて、少しだけ想い出に変えることが出来たのだった。

そして今年は『昭和40年男』のイベントである
“浅草秘密基地” の日程とぶつかった。
俺は追悼の曲を歌った。
やはり特別な感情になり、余計な力が入ってしまう。
最後の曲の最後のフレーズでフラットしたことは、
たぶんナオキも怒っていただろうな。
大切な曲を台なしにしてしまった、すまぬ。

つい余計な力が入ってしまった
つい余計な力が入ってしまった

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