2004年の春のことだった。
体重は高校時代にまで戻せた。
これなら堂々とナオキに会えるし、ロックもできる。
この春の繁忙期が過ぎたらヤツに話してみよう。
きっと腕はさび付いてしまっただろうが、なに、スグ戻るはずだ。
4月19日、ヤツが首をつった日は九州にいた。
東京に戻って数日後、かつてのバンドメンバーから電話が入った。
「おお、ずいぶんと久しぶりだな」
「ああ。ナオキなんだけどさ」
「うん、どうした?」
「死んだよ、首つった」
もう真っ暗で、仕事も手につかないし飯を食う気にもならない。
聞くともう葬儀は終わっていて、連絡もろくに回らなかったらしく、
バンドのメンバーも同級生も知らないままだったそうだ。
さぞ、寂しい式だっただろう。
いろんなことを想い出し、いろんなことを後悔した。
この日は弾き語りの日で、想い出の曲をいくつも歌った。
知られれば甘えるから、弾き語りの時間が終わるまでは
ナオキのことは誰にも言わずもくもくと歌った。
終わって
「実は気がおかしくなりそうなんだよ」
とここのマスターや常連客に話した。
心配した連中が朝まで付き合ってくれた。
俺にとってはこの日が葬式で、浴びるように呑んだ。
「俺が殺した」と何度も叫んでいたことが記憶に残っている。
翌朝、酒のニオイをプンプンさせていただろう俺は家に着くなり、
ヤツとプレイしているビデオを取り出し、女房にヤツのことを告げた。
女房もキーボードでバンドに参加していたころがあり、ナオキの存在はやはり大きい。
また浴びるほど呑んだ。
涙というのは枯れないものなのだなと思うほど泣き続け、涙のスジが真っ赤になり痛かった。
俺が会いに行っていれば、絶対にこんなことにはならなかったはずだ。
そしてそれ以前に、ひきこもるようになってしまったのは、
間違いなくあのレコーディング前後の何かが要因となっているのだから、
やはり俺が殺したことになると責めた。
偶然書き上げた曲中の
“俺たち出会わない方が幸せだったのかもなあ”
というフレーズがそのままキツイ現実になってしまった。
通夜に出たかったと思われる人間に次々に連絡を取り、
4日に分けて手を合わせにいった。
その中には最後の演奏をした野田浩平もいる。
2人で浴びるほど呑み「俺が殺した」と泣き崩れると「それは違う」と言い続けてくれた。
どんな死より、自殺で逝かれるのは痛い。