僕らが中学生だった頃から数年が、国内のギターブームが最高潮だったそうだ。78年くらいから80年の前半頃のことで、ロックシーンが様々な紆余曲折を経て、いよいよ巨大ビジネスへと移行した時期だ。百花繚乱のごとく新しいロックミュージックが生まれ、音楽評論家たちは言葉にはめ込んでなんとかカテゴライズする日々に、まるで追われていかのようだった。パンク、テクノ、AORなどなど、子供だった我々に解説をしてくれたり、いかに複雑な背景によって新しいサウンドが生まれていったかを理論立てていた。そんなロックシーンの中で、ギタリストは最高にカッチョいい存在だった。憧れるタメ年は多く、僕も中1の冬にお年玉を総動員して手に入れた。昭和40年男はブームの貢献者世代である。
教則本や譜面はどれも高価で、古本屋で20円くらいで売っていた平凡や明星のおまけ、通称『歌本』でコードを覚えていった。レベルが上がっていくと、楽器店に通って教則本を立ち読みで暗記して家に帰り練習に励んだ。そこに決定版のごとく出てきた教則月刊誌が『ギターマガジン』だ。毎月買っていた『ミュージックライフ』を我慢して、コッチに乗り換えて難しいギタープレイにチャレンジした。この雑誌の立ち上げに参加し、すぐ後に編集長となった川俣さんと『昭和40年男』で、現在一緒に仕事しているのはなんという偶然というか巡り合わせなのだろう。
「あんたのせいでいろんなギターやグッズを買わされたんだ」とか「ギターにハマって人生狂わされた」なんて、最近では軽口を叩いたりするが、極めて大きな存在である。『昭和40年男』では主に音楽ページを担当してもらっていて、その知識の豊富さにいつも驚かされる。ベテランミュージシャンのインタビューに動向すると、先方がそんなことまで知っているのかとの表情を見せるのが横にいてわかる。知識が豊富なうえ、仕事柄ライブ取材をこなしているからミュージシャンたちの本質を知り、さらにギタープレイヤーでもあるから深いところを突く。
僕も相当な音楽好きであるが、かなわないのは黎明期をリアルタイムで知らないのと、前述したライブを観た数がまったく違うことだ。
「週に1~2本は必ず観ていましたね」と、音楽雑誌の編集長だから招待状がひっきりなしに届いたそうだ。さらに加えて最新の音源も常にサンプルとして届き、聴き込むのも仕事だったのだから、聴いてきた量もまったくかなわない。差しで呑むと音楽話が延々と続きブレーキがかからず、2人共にぶっ潰れる。
知識ってヤツはあればあっただけいいが、行動がともなっているかいないかで質が変わるものだ。以前、音楽評論家と名乗る方と話してその薄っぺらなことにビックリしたどころか悲しかった。たくさんのミュージシャンたちについて知識があり、楽曲もたくさん知っているのだが、リズムとはなんだかをまったくわかっていない。そのくせグルーブとか平気で書くのだ。逆に先日川俣さんと一緒に観たリチャード・マークスさんのライブで、息子さんたちの演奏をビデオに収めてカラオケ状態にして歌うシーンがあり、このドラムがなぜかものすごくカッコいいリズムを切っていた。
「どうでもいいことなんですけど、息子さんのドラムよかったですよね」
「ただの8ビートにグループがあって。バスドラムがすごかった」
そう、こんな会話は先の評論家とは絶対成立するわけがなく、このときにふと彼の顔が浮かんでしまったのだった。
そんな重箱のスミで感動しているのは会場に何人もいないはずで、だから僕が夢中になった『ギターマガジン』を作ったのだなとあらためて納得し、一緒に仕事していることを改めて感謝したのだった。そのあと作業現場に戻るはずだった2人は、へべれけになるまで音楽談義を続けたのだった。ヤレヤレ、ロック中毒には困ったものだ。
おっ、ギタマガ編集長様登場ですね。
好きなギタリストのインタビューを隅から隅まで読んで
自分で真似できることはやってましたねぇ。
エディの弦を鍋で煮るとか(笑)
まっ、今でも変わんなかったりして(笑)
煮ましたか、弦を(笑)。ホント、懸命になって参考にしましたよね。エフェクターセッティングも参考にするんだけど似ない。それがギタリストの腕前なんだと理解するまで時間がかかりましたよ。