終戦の日。

67年前の月日が流れ今年もこの日を迎えた。僕は、この国のために命を落とした英霊たちにしばし心を預け、平和への祈りを捧げる時間をつくるようにしている。

昭和40年男が生まれるたった20年前のことだ。47歳を迎えた我々にとってその年月の短さはよく理解できる。今から20年前といえば、つい昨日のようだもの。バブルが崩壊したとされるものの、まだまだ喧噪のなかでもがいていた。終戦と僕らの誕生はその程度の尺しかないのだ。そして僕らの親たちはなんらかの思いを胸にしまっていることだろう。17年前に逝ってしまった昭和7年生まれの親父に、もっとアレコレ聞いておけばよかった。年齢が足りずに、戦地に行けなかったと悔やんでいたことだけは何度も聞かされたものだが、じっくり呑む機会をあまりつくらなかったことを今さら後悔ばかりしている。健在な皆さんは、ぜひ話をたくさん引き出しておくべきだと、出来なかった僕より進言させていただく。お袋は15年生まれで強いイデオロギーはなく、貧しかったことと父親が戦争から帰らなかった悲しみばかりが強く出てしまい、聞きたいところとはポイントがややずれてしまう。親父とはずいぶん異なるものだ。これは生まれ年や性別、またその後の教育環境などで大きく異なるはずだ。僕らが知るべき戦争は、これらをひっくるめての俯瞰でとらえるしかないのかもしれない。

父親に聞けなかったことを、連載企画の『俺たちの知らない遠い夏の日』でお届けしている。体験者たちのリアルな声であるものの、戦争を経験しながらも「生き残った」という強いフィルターがある。だからよけいに、インタビュアーの私見は一切入れずに書いてもらっている。皆さんがどう受け止めるかは、戦地に散った方々の残された資料や記録と合わせながら、独自の意見を練り上げていただきたい。

僕らは戦争をまったく知らないのだ。これはものすごく大きな現実であり、持論を持つにはあまりにも稚拙な存在だということが残念ながら前提である。だからこそ努力を続けていきたい。そして多くのタメ年男たちと共有し、また議論しながら精度の高い持論を練り上げていきたい。そして語り部として、戦争経験者とのブリッジ役になり後世に伝えていくのは、昭和40年男にとって責務の1つではないだろうか。

靖国神社には「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の心霊」が祀られている。竹島、尖閣諸島、北方四島とそれぞれに好き放題にされている、外交不能の現状についてさぞお怒りのことだろう。これについても、僕らこそが社会にコミットすることで変えていかねばならぬ。

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