ミュージシャンを夢見ながら上野の居酒屋で働いていた僕は、仕事がはねると飲みにいくことがままあった。深夜営業している店は、当時の上野にはまだまだ少なく、電車が動く約1時間前の4時までという店が多かった。これは、スタッフが片付けを終えて始発で帰るためだろう。僕が働いていた大箱の居酒屋「あいうえお」も、12月だけ深夜営業を展開して4時閉店だった。始発まで、時には悪ノリして7時ごろまで店でどんちゃん騒ぎしていたなんて想い出もある。
4時までの店から時間を埋めるのはかったるいのだが、5時まで営業しているのは味気のない店ばかりで、天秤にかけると前者を選ぶことが多かった。そこに救世主のごとく現れたのが「名代 富士そば」だった。ちょくちょく行くから店のおいちゃんと仲よくなれて、だらだらと時間を潰せる場所になった。ここで初めて知ったのが春菊天そばで、ここではほぼこいつをオーダーして始発を待った。先日、久しぶりに食ったら鮮やかに当時がフラッシュバックしたのだった。
悩みばかりだった。うまくいかないバンド活動と同級生たちが歩んでいく大人の階段に対して、居酒屋のホールでの仕事は人生経験を積んでいる気になれない焦りがあった。そんな時期に朝方を過ごした「富士そば」では、今も演歌が流れている。フラッシュバックはこの演歌によるところも大きく、当時の行き場のない悩みを懐かしみながら春菊そばをすすった。
「毎度っ、茹でるから待ってて」とおいちゃんはいつも茹でたてを出してくれた。わずかにかかるその時間も、始発待ちには心地よい。そばを食いながらだから、調理人の先輩からそばの講釈がちょくちょく聞けたりもした。これは今のそばっ食いの自分に少なからず繋がっている。そして上野の名店を教わった、池波正太郎先生も愛したという「蓮玉庵」や「やぶ」はなんとなく敷居が高く感じて、後におっさんになってから愛する店になった。双方いい店ですぞ。
あのおいちゃんはどうしているのだろうか。講釈してくれた先輩は。生涯会えることはまずないだろうが、どっこい店は残っていていつだって想い出を連れてきてくれる。ありがたやありがたや。