浜松、大阪、熊本まで行って、ちょいと戻って福岡で仕事をこなし、ついさっき東京へと戻り、今こうしてパソコンのキーボードを打ち込み、そしてすぐさま『浅草秘密基地』へと向かう。つねに忙しい日々を送ってきたが、今年はこれまでの人生で最も忙しいかもしれん。それでも幸せに感じているのは、震災でたくさんの仕事がキャンセルになった去年があったからだ。
金曜日の浜松で行われた定年送別会は素晴らしい宴になった。主役の挨拶は、長い仕事人生を振り返りながらのずっしりと重みのある言葉が響き渡り、続けて集った面々は主役との想い出を語っていった。僕は世界へと目を向けるキッカケをつくってくれたことの礼を述べた。ビザが取れるギリギリのタイミングの呑みの席で「北ちゃんは中国を見た方がいい」からやがて「見なけなければならない」とドンドン熱くなり、そのまま翌日には手配をすませ、広州で行われたモーターショーへと出かけた。2000年のことだった。仕事で出かけた初の海外で、今も鮮明な記憶として残っている。黄色がかった街の空気となんとも嫌な臭いのする水道水、そしてあふれるような活気は、まるで幼少の頃の日本のようだった。アテンドしてくれた現地の方が開口一番「中国は凄いでしょう」と、自信に満ち顔も忘れられない。言葉通り、その後の中国の発展はご周知の通りだ。と、僕の人生に大きな影響を残してくれたことの例を述べたのだった。そして後日、彼からこんなメールが届いた。
昨日は、皆さんお忙しいのに、時間を割いていただきまして
本当にありがとうございました。
※わざわざ東京から駆けつけていただいた○○さん、北村さん、○○さん、タイからの○○さん、ありがとうございます。
12年ほど前から始まったZ会(熱く語る人の会?)がこれまで続いているのは宣伝時代の皆が海外を見て、仕事の将来、日本の将来を慮り、ああすべき、こうすべきを、熱心に本気で考えていたからだと思います。
若かったからと言えばそうかもしれませんが、続いているということは、集まっている人たち皆が、前向きな思考の持ち主で、いつも心の中で、”どげんかせんといかん” と、思っているからなのでしょう。(中略)
時代は移ろいますが、日本人として日本を憂い、常に問題意識を持ち、皆がいつまでもチャレンジャーである限り、この会は続くのだろうと思います。今後は、○○さんを中心に年に数回集まれたらいいなと思います。
是非、開催の際はお呼びください。駆けつけます。よろしく!!
※Z会は、彼の名前の頭文字からとった名称。
参加した皆から心のこもった品々が送られ、大荷物となった彼の後ろ姿を浜松駅で見送った。幸せな仕事人生が1つ幕を閉じ、まるで映画のエンディングシーンのようだった。たかが仕事に心の底から熱くなり、僕は彼に勝負を挑むつもりで何度も議論を重ねた。ズタズタにノックアウトされることがほとんどだったが、周囲の入り込む余地がないほど集中して語り合った日々は、忙しくさせてもらっている今の自分を練り上げたことになる。感謝してもしきれない先輩からの教訓は、今度は僕が伝えていかなければならない。そう、初めて酒を組み交わしたのは、彼が今の僕くらいの歳のときだった。