『ドカベン』も予言の書!?『日本野球はいつも水島新司マンガが予言していた!』その一部を公開! 6/29の刊行記念イベント&配信も注目!!

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(※以下、オグマナオト著
 『日本野球はいつも水島新司マンガが予言していた!』p.014~023 を再構成し掲載 )
 
 
完全クロニクル
「水島予言」&「時代とのシンクロ」
【前編】1970 -1993
  “「野球マンガ本格始動」から「伝説の5打席敬遠」まで” より

【水島予言】1973・『ドカベン』明訓高校編へ。最強打者への道、始動 →【現実世界】1974・金属バット解禁で高校野球も打高投低時代へ 
■山田太郎、岩鬼正美がけん引
 高校野球は猛打豪打の時代へ

野球界にとってひとつの分水嶺とも言える年、それが1974年だ。プロ野球では読売ジャイアンツのV9時代が終焉し、「ミスタープロ野球」長嶋茂雄が引退。その一方で、王貞治は戦後初の三冠王を達成。プロ野球の打の主役が明確に入れ替わる年となった。

そして高校野球ではこの年、金属バットの使用が解禁。今につながる「打高投低」時代の始まり、と言える。もっとも、初年度は多くの学校で金属バット化に対応できず、木製で出場した選手がほとんど。この年の夏の甲子園を制した銚子商業の4番、元・巨人の篠塚利夫 (当時2年) も「手の感覚に合わない」と木製バットでの出場だった。

そんな変革の年を目前に控えた 1973年 12月。野球マンガの金字塔『ドカベン』が本格始動。中学野球編が終了し、明訓高校野球部を舞台にする「高校編」へ。中学までは木製バットを何度も折りながら戦ってい
た山田たちも、明訓入学後、手にするバットはいつの間にか金属バットに。ホームラン量産時代への波に乗って打高投低時代の象徴的な存在となっていく。このタイミングの妙こそ、水島新司の神通力と言える。

少年チャンピオンコミックス『ドカベン』第1巻

振り返れば、『ドカベン』の連載が始まったのは 1972年 4月。ただ、連載当初に主人公・山田太郎が打ち込んだスポーツは野球ではなく、柔道だ。そのため、単行本には「野球コミックス」ではなく「学園コミックス」と明記され、連載開始から野球 (中学野球編) を始めるまでに1年3ヶ月、高校野球を始めるまでにはさらに1年近くも待たなければならなかった。

だが、このタイムラグが功を奏し、山田世代は高校入学後、初期の段階から金属バットを手にすることができた。甲子園通算成績「打率7割5分、本塁打20本」という数字を残し、“高校野球マンガ史上最強打者” の呼び声も高い山田太郎の成績も、悪球打ちで場外までかっ飛ばす岩鬼正美の豪快打法も、さらにいえば、非力な殿馬一人の秘打の数々も、木製バットでそれをやられてしまっては現実離れが激しく、興ざめしてしまう。しかし、金属バットが当たり前の時代になり、打球の飛距離も打球速度も飛躍的に向上した時代の流
れを受けることができたからこそ、リアルと虚構の狭間で、当時の野球少年たちに「こんな凄い打者になってみたい」「山田みたいにホームランを打ってみたい」と思わせるリアリティに結びつけられたのではないだろうか。

ではなぜ、『ドカベン』は当初「柔道マンガ」としてスタートしたのか? これは人気が出なかったからの方針転換などではなく、あくまでも計画どおりのこと。そもそも、『週刊 少年チャンピオン』編集部からの連載依頼ははじめから、「甲子園を舞台にした野球マンガを描いてくれ」という内容だったことを、雑誌『本の窓』のインタビュー (1995年 5月号) で水島本人が明かしている。その際に影響したのが『週刊少年サンデー』で先に連載していた『男どアホウ甲子園』の存在だった。

幼少期に「野球選手になりたい」と夢抱いていた水島にとって、野球マンガを描くことはマンガ家として最大にして究極のテーマ。そして、野球を愛するがゆえに、荒唐無稽な野球描写はしたくないという強いこだわりを持っていた。そのため、自分で納得のいく野球描写ができるようになるまでは、あえて作品のテーマに野球を封印。雌伏の20代を過ごし、迎えた1969年、30歳のときに『エースの条件』でついに野球マンガに本格着手。翌 ’70年に連載が始まった『男どアホウ甲子園』が初のヒット作となり、その成功を受けての秋田書店からの依頼だったわけだ。

そして、『エースの条件』も『男どアホウ甲子園』も、どちらも原作付き。野球を理解していればありえない設定を振られることも多く、それらとどう向き合うかに大きな苦労を経験してきた水島にとって、原作者なしで取り組める秋田書店からの依頼は願ったり叶ったり。成功させたい気持ちはひときわ強かったであろうことは想像に難くない。
 
ただ、同時連載となれば、週刊誌2誌で同じ高校野球モノ、というダブりが生じることに。それではどちらかに思い入れが強くなってしまうからと、秋田書店からの依頼には一度は断りを入れたことと、それにもかかわらず、半ば強引に押し切られてしまったことを、前出『本の窓』のインタビューで次のように答えている。

一年待ってくれれば『男どアホウ』が終わるから、それから始めたいと。でも、どうしてもやってほしいということで、スタートしたのが『ドカベン』なんです。ですから『ドカベン』の初めの一年は野球ではなく、柔道漫画になっていて、しかも中学三年という設定です。

こうして始まった「ドカベン柔道編」。ただ、当初から野球への伏線が張られていたため、野球マンガへの転向は自然な流れだったのだ。もっとも、柔道マンガとしても人気が出てしまって、野球に切り替わることに一部読者からは苦情も来たという。
 
ちなみに、前出『本の窓』で語ったこの「ドカベン連載開始」に至るエピソードでは、山田太郎と岩鬼正美のキャラクター設定についても紹介されている。実は主人公である山田のキャラ設定について、「目が細すぎて太った角刈りの男なんて地味すぎる」「マスクで顔が見えない捕手が主人公なんて」と編集部からボツを食らってしまう。そこで生まれたのが対になる岩鬼の存在だった。

この両極端なタイプは、そのまま野球のポジションを表しているわけですよ。地味で動きが少ないが、チームの要である捕手と、派手で華のあるポジションであるサード。そう、ちょうど昔の長島と野村です。普通ならキャッチャーが漫画の主人公というのはやらないですよ。だけどこの地味な主人公に岩鬼というとんでもないキャラクターを登場させ、からませていくことで、面白さが倍増していくわけです。

このインタビューに限らず、水島はいたるところで、《岩鬼は最高のキャラクター》《私の作品のなかでももっとも愛着のある登場人物》と、自ら絶賛するコメントを何度も残しているのが印象的だ。
 
岩鬼という、自由気ままで「悪球打ち」しかできない、まさに “マンガのような” キャラクターで脇を固めつつ、主人公ドカベンはあくまでも正統派。小細工はいっさいせず、常に堂々と力対力の勝負に挑み続け、勝ち続ける。『ドカベン』以前、荒唐無稽な魔球が全盛だった野球マンガの世界のなかで、『ドカベン』という作品がひときわ熱い支持を獲得できた要因こそ、この「リアリティ」の追求と「マンガ的な味付け」のバランスが最適だったからだろう。
 
そしてなにより、「正統派の山田」と「邪道の岩鬼」、両極端なふたりが並び立つからこそ、バットマンの魅力を存分に発揮することができたのだ。
 
それにしても、研究熱心な “野村克也” 的努力型バッターと、大舞台にめっぽう強い “長嶋茂雄” 的天才バッターが同じチームにいて共存できていたのだから、明訓が負けなかったのも当然の流れだった。
 

〈現実とシンクロ〉

■神奈川高校野球の隆盛を予見!?
 神奈川を舞台にした『ドカベン』

「神奈川を制するものは全国を制す」。1970年夏の選手権を制した東海大相模に始まり、翌年の夏は桐蔭学園が、1973年には横浜高校が春のセンバツ優勝と、’70年代前半、神奈川勢の躍進が続いた頃から使われ始めた言葉である。
 
なかでも象徴的な存在といえば、1974年に東海大相模に入学し、すぐさま甲子園に出場した原 辰徳。同じく人気絶頂だった定岡正二の鹿児島実業と対戦した夏の甲子園準々決勝は、テレビ視聴率34%を記録。第4試合で最後はナイターとなったこの一戦、当時は試合時間が長びくとNHKのテレビ中継は打ち切られるのが常だったのでそうしたところ、局に抗議電話が殺到。翌年以降は総合テレビと教育テレビ、ふたつのチャンネルを駆使して中継を継続する今の形に。NHKの中継ルールまでも変えてしまうスター球児だった。

秋田文庫『ドカベン』第16巻

翌1975年には原人気の勢いを受け、高校野球専門誌『輝け甲子園の星』が創刊。創刊号の表紙はもちろん、東海大相模2年・原 辰徳クン。当時、タツノリ見たさに学校だけでなく、試合を行う保土ヶ谷球場や川崎球場が人で溢れかえることは珍しくなかった。
 
そんな「神奈川野球熱」はその後も受け継がれ、今も神奈川大会は入場困難なほどの盛況ぶり。もちろん、神奈川県勢が全国をけん引する強さなのも変わりはない。そんな神奈川を舞台に、原入学に先んじること2年前に始まったのが『ドカベン』だ。文庫版16巻のあとがきでは、原辰徳本人が当時の神奈川高校野球事情について、『ドカベン』世界の魅力とともに次のように解説している。

山田、岩鬼達の明訓高校、不知火の白新高校、雲竜の東海高校、土門の横浜学院ら神奈川県を舞台にした強豪校が甲子園をめざしてシノギを削り「神奈川を制するものは全国を制す」と謳っていたよね。実際、当時の神奈川県は僕ら東海大相模高、法政二高、桐蔭学園、横浜高校、Y高(横浜商業)とやたら強かった時期だし、(中略)山田太郎、岩鬼のような個性の強い男達の集まりだったから「ドカベン」には愛着があったんだ。

野球マンガに限らず、スポーツマンガの構成で難しいのは、地方大会のレベルを高くしすぎてしまい、全国大会でインフレが起きてしまうこと。その点、神奈川が全国屈指の強豪揃いという設定に無理がない『ドカベン』では、県大会がどれだけ熱戦になっても「だって神奈川だから」と妙な納得感を生み出し、作品のリアリティ醸成につながっていた。
 
このように、神奈川野球人気にひと役買った 水島新司 と 原 辰徳 が 1996年 4月、ある記念式典で同席している。神奈川県大和市にある引地台野球場の改修工事が終わり、通称「ドカベンスタジアム」として再出発する際のオープニングセレモニーだ。神奈川野球に貢献した『ドカベン』は、ついに球場名として冠せられる存在になったのだ。そのセレモニーで水島新司が次のあいさつを残し、神奈川を舞台にした理由を明かしている。

「野球は楽しい  捕れそうもない打球を捕った時のあの感動! バットにボールが当たったときのあの感動! それはなんとも言えない気持ちです。「ドカベン」はそんな仲間達がひとつになって目標に向かう「和」を描きたかったのです。舞台を神奈川にしたのは、昔からそんな少年達であふれ、高校野球のレベルが高かったからです。ですから “神奈川を制するものは全国を制す” と言われてきたのです」

(了)
 

『日本野球はいつも水島新司マンガが予言していた!』
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   現実に登場した “ドカベン” 香川と “球道くん” 中西…!
 『日本野球はいつも水島新司マンガが予言していた!』公開第2弾。

 


 
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